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雨とマルコポーロ――恋が香る夜に  作者: tommynya


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第15話 君の名前で目覚める朝

 意識がゆっくりと浮上する。薄いカーテン越しの光が頬を撫でて、俺は目を開く。

 隣には乃亜がいる。

 寝顔が近い。まつ毛が長くて、唇が少しピクピクと動いている。夢でも見ているのか、むにゃむにゃと何か話しているみたい。


 体の奥に、じんわりとした熱が残っている。それは痛みというほどじゃなくて……ただ、誰かとひとつになった証みたいだった。昨夜のことが夢じゃなかったのか、少し身体がだるい。

 乃亜の目がゆっくりと開く。焦点が定まると、小さく微笑む。


「起きてた?身体、大丈夫?」


「うん……もう昼だな?」


「うん。凪の寝顔、初めて見たけど天使みたいだった」


 そう言って、乃亜は俺の頬にそっとキスをする。くすぐったくて、でも温かい。


「俺で、よかった?」


 言葉が勝手に出てしまう。昨夜を思い出すと、どうしても聞きたくなる。


「うん。凪じゃなきゃ、ダメだった」


 乃亜の声は穏やかで、迷いがない。俺の不安を溶かすように、もう一度頬にキスをしてくれる。


「でも……俺、経験とか全然……」


「うん、だから良かった」


 乃亜がすぐに答える。その迷いのない声に、俺は少し驚く。


「君が初めてだから、すべてが特別だったんだ。俺だけのものだって思えた」


 頬が熱くなる。乃亜はいつも、俺の心配を軽やかに消してしまう。


「君、昨夜すごく可愛かった」


 乃亜が急に言い出して、俺は慌てて顔を手で覆う。


「何、急に……」


「だって、本当のことだから。最初は緊張してたくせに、だんだん甘い声で俺の名前呼んでくれて……」


「やめろって!」


 照れてる俺を見て、乃亜は凄く楽しそうだ。普段のクールな表情とは全然違う、くしゃっと柔らかい表情を見せてくれている。


「恥ずかしがる君も可愛い。でも昨夜の君はもっと可愛かった」


「乃亜……」


「はい?」


「調子に乗りすぎ」


 でも、嫌じゃない。むしろ、こんなふうに笑ってくれる乃亜を見ていると、幸福感で満たされる。

 乃亜がベッドから立ち上がり、カーテンを開けながら振り返りざまに言う。


「アフタヌーンティーしようか。今日は特別な日でしょ?ちゃんと準備してあるんだ」


 テーブルの上には、すでに紅茶セットが並んでいる。乃亜は早朝に一度起きて準備してくれてたみたいだ。

 昨日ベーカリーで買ったスコーンにサンドイッチ、苺のミルフィーユ。少し非日常な、お祝いの朝の食事。

 乃亜が椅子を引いて、微笑む。


「さ、お姫様はこっちへ。──なんてね」


「ほんとに、王子様かよ……」


 照れながら椅子に座ると、乃亜がそっと椅子を入れてくれる。まるで高級レストランみたいな扱いに、心臓がドキドキする。


「そういうの、慣れてないから」


「慣れてよ。恋人なんだから」


 恋人。その言葉を聞くたびに、温かな気持ちになる。まだ実感が湧かないけれど、特別な響きだ。

 上下に割ったスコーンに、バターとブルーベリージャムを乗せて、ひと口食べてみる。口の中に広がる濃厚な味に、思わず声が出る。


「このバター……めちゃうまい」


 乃亜がフッと噴き出す。


「それ、バターじゃなくてクロテッドクリーム。スコーンにはたっぷり乗せていいんだよ」


「へぇ……もっと乗せていいの?贅沢だな」


「うん。初めての恋人との朝だから、贅沢しようと思って」


 紅茶をひと口含む。香りが、華やかで味も濃い気がする。


「このお茶……なんだか爽やかだな」


「これは緑茶ベースで、レモンとヴァニラが香る|THÉ SUR LE NIL 《テ・シュル・ル・ニル》。ナイルの紅茶。恋人になって最初の朝だから、これにした」


「……旅の始まり、みたいな感じ?」


「うん。ここから、君と一緒に“世界の果てまで旅する”ようなお茶をイメージしたんだ」


 胸がいっぱいになる。乃亜はいつも、こんなふうに特別な意味を見つけるのが上手い。普通の朝食が、記念日に変わってしまう。


「乃亜って、こういうこと考えるの好きだよね」


「こういうこと?」


「意味をつけるっていうか……普通のことを、特別にしちゃうところ」


 乃亜が少し考えるような顔をする。


「君といると、本当に特別だと思えるから、自然とそうなるのかも」


 そんなこと言われたら、どう反応していいかわからない。俺はただ、スコーンを口に運ぶ。


「あ、クリームついてる」


 乃亜が俺の口元を指さす。


「どこ?」


「ここ」


 乃亜の指が唇の端に触れる。その瞬間、鼓動が跳ねた。


「取れた?」


「うん……でも」


 乃亜が身を乗り出して、そこに軽くキスをする。


「今度は俺がついちゃった」


「バカ」


 でも、幸せすぎてにやけてしまう。こんな他愛のないやりとりが、心を満たしてくれるなんて知らなかった。



 食事が終わると、俺たちはソファに移り、乃亜が持ってきたアルバムを一緒に眺める。


「これ、パリで撮ったんだ」


 ページをめくりながら、乃亜が説明してくれる。セーヌ川の写真、ノートルダム大聖堂、凱旋門、シャンゼリゼ通りのオープンカフェの連なる様子。


「いいなあ。俺、海外行ったことないんだ」


「今度一緒に行こうか」


「え?」


「卒業してからだと時間出来るかな。就職してからでもいいけど、休みがとれたら二人で旅行とか」


 卒業。その言葉で、現実がちょっと顔を覗かせる。


「そういえば、凪って卒論どうなの?」


「もう大体形になってる」


「二年後、俺も考えなきゃな。まだ全然……決めてない。なんか慌ただしくて」


 アルバムを閉じて、俺は少しため息をつく。


「春になったら、いろいろ変わるんだろうな」


「変わるって?」


「就職とか、住む場所とか……もしかして、離れ離れになったりして」


 乃亜が黙って俺を見つめている。


「それが心配?」


「うん……すごく」


 乃亜が俺の手を取る。


「俺は君を手放すつもりはないよ」


「でも、乃亜はきっとモデルの仕事でいろんなところに行くし、世界が広がっていくじゃん。俺なんて……ただのサラリーマンだからさ」


「凪」


 乃亜が俺の手をギュッと握り、しっかりと視線を合わせる。


「俺の世界が広がったのは、君がいるからだ。君がいなければ、意味がないんだよ」


 そんなこと言われても、不安は簡単には消えない。でも、乃亜の手の温かさが、少しだけ安心させてくれる。


「ちゃんと好きでいてもらえるか、不安になったらどうしよう」


 正直に言うと、乃亜が柔らかい表情になる。


「その時は、何度でも好きだって言うから」


「ほんとに?」


「ほんとに。約束する」


 乃亜が俺の額にキスを落とす。優しくて、約束の証のようなキス。

 自然に、俺は乃亜にもたれかかる。彼の胸に頭を預けると、ドクドクと心音が聞こえた。


「君、甘えん坊だね」


「昨夜のせい」


「俺のせい?」


「乃亜が優しくしてくれたから、甘えたくなった」


 乃亜の腕が、俺をそっと包み込む。


「好きなだけ甘えていいよ。俺も、君に甘えたいから」



 夕方のティータイム。窓の外は黄昏時。

 二人はソファに隣同士で座り、紅茶の香りが立ちのぼる静かな時間を過ごす。


「……ありがとう」


 乃亜が先に口を開く。


「え?」


「昨夜、君が俺を受け入れてくれて、本当に嬉しかった」


 しばらく沈黙が続く。俺も、同じ気持ちだった。


「……俺も、ありがとう」


 膝の上で、手がそっと触れ合い、指と指が絡み合う。

 そして、自然とキスを交わす。一夜を共にしたからか、もう遠慮はない。求め合うようにキスは深まっていく。

 乃亜の舌先が、そっと俺の唇をなぞる。昨夜覚えた感触が蘇り、胸の奥がきゅんと締まる。


「君のくちびる、柔らかいよね」


 乃亜が唇を離して、息を吐くように囁く。


「そんなこと言うなよ、なんか恥ずかしい……」


「でも本当だから……食べちゃいたいほど」


 また、軽くキスをされ、ハムハムと唇を挟む。本当に食べられそうだ……。今度は、俺の方からも返してみる。次第にキスは深まり、舌先が軽く触れ合って、甘い感覚が広がっていく。


 ふたりの唇が重なるたびに、ローテーブルの紅茶が静かに冷めていく。でも、乃亜との時間だけは、ずっと熱い。


「ねえ、凪」


「なに?」


「もっと近くに来て」


 乃亜が俺を引き寄せる。気づけば、俺は膝の上に座らされていた。


「こんなに近くにいるのに、まだ足りない」


 乃亜の手が俺の背中をそっと撫でる。


「昨夜から、君が愛おしくて仕方がない」


「俺も……」


 小さく答えると、乃亜がさらにぎゅっと俺を包み込み、上目使いで見つめられる。


「君と一緒にいると、時間が止まったみたいに感じる」


 膝の上で、俺はそっと彼の首に腕を回す。こんなに近くで見る乃亜の顔は、いつもより幼く見えた。ヘーゼルの瞳がサイドランプの灯りで、綺麗なグリーンに透ける。


「乃亜」


「ん?」


「好き」


 素直に言葉にすると、乃亜の瞳が柔らかく細まる。


「俺も、好き。すごく」



 夕食はデリバリーで軽く済ませて、カクテルタイムが始まった。

 ミントたっぷりのモヒートを飲みながら、乃亜が選んだフランス映画を見始める。会話が少なくて、詩的な雰囲気の映画だ。

 映画の途中で、俺はそっとグラスを置く。


「今日が終わらなければいいのに」


 こっそり呟くと、乃亜が寄り添ってくる。


「夜って、終わるからこそ美しいんだよ。ほら、映画みたいに……」


 画面を見つめながら続ける。


「──たとえば、“その夜、二人は出会い、朝には名前を知っていた”」


 俺がそっと彼の手に触れると、乃亜は俺の耳元でささやく。


「キスしても、いい?」


 俺は一瞬目を伏せ、フッと息を吐き頷く。


「さっきは勝手にしたのに……許可いらないだろ」


「ふふっ、それもそうか」


 キスは甘くて、静かだった。乃亜の手が頬をなぞる。唇が触れ合うたびに、温かな息が混じり、甘い味がする。

 映画の音が遠くなって、部屋の明かりがゆっくりとフェードアウトしていくみたいだった。


 温度と香りと、重なり合う呼吸。“ふたりでひとつ”みたいに感じる。

 そして、確かなことは──乃亜の鼓動が、俺の身体に記憶されて来たということだ。


「……もし今日も、帰したくないって言ったら、困る?」


 乃亜の声は、いつもより少し甘い。


「困らないけど、また言ったなその言葉」


「うん。また言う。だって願望は本音だから」



 映画の途中なのに、俺はウトウトしはじめる。

 乃亜が肩に俺の頭をそっと寄せてくれて、身体に記憶された心音と重なり、静かに響いていく。


 気づいたときには、夜が深まっていた。俺はまだ乃亜の部屋にいて、彼のベッドで横になり、知らない間に寝ていたみたいだ。

 きっと明日の朝もここにいるんだろうな……と思いながら再び目を閉じる。


 ◇

 

 深夜になり目を覚ます。乃亜の腕の中で、静かな寝息を聞いてみる。

 時計を見ると午前一時。真夜中だった。


 眠れないわけじゃないけど、この時間が惜しくて……乃亜の寝顔を見つめる。普段より穏やかで無防備な表情だ。

 こんなふうに乃亜を独り占めできるなんて、まだ信じられない。


「起きてるの?」


 乃亜が薄目を開き、小声で囁く。


「うん……眠れなくて」


「何か心配事?」


 乃亜が俺を見つめる。暗闇の中でもその視線は優しい。


「心配事っていうか……」


 少し考えてから言う。


「なんだか、夢みたいで。明日起きたら、全部夢だったってことになりそうで」


 乃亜がクスッと息を漏らす。


「じゃあ、夢じゃないって証拠を作ろうか」


「証拠?」


 乃亜が起き上がって、机の引き出しから何かを取り出す。小さなノートとペンだ。


「何それ?」


「日記。毎日つけてるわけじゃないけど、特別な日は書くことにしてる」


 乃亜がペンを走らせる。暗がりでも慣れた手つきで文字を紡いでいく。


「何て書いてるの?」


「秘密」


 そう言って、乃亜はおどける。


「でも、君が読みたくなったら、いつでも見せてあげる」


「じゃあ、今読みたい」


「ダメ。まだ書き終わってない」


 乃亜がノートを抱える仕草が可愛くて、思わず笑ってしまう。


「君も、何か書いてみる?」


「俺が? 何を?」


「今の気持ち。なんでもいいよ」


 ペンを渡されて、俺は困ってしまう。文章を書くのは得意じゃない。それに、今の気持ちなんて、言葉にできるんだろうか。

 でも、乃亜が待ってくれているから、とりあえずペンを握る。


『乃亜の隣で目が覚めた。幸せすぎて、夢みたいだった。でも夢じゃない。ちゃんと現実だ。』


 短い文章を書いて、乃亜に見せる。


「うん、いいね。これで証拠ができた。君の字で、君の気持ちが残ってる」


 そう言って、乃亜は楽しそうに、俺が書いた紙を大切そうにノートに挟む。


「ねえ、乃亜」


「なに?」


「俺たち、ちゃんと続くよね?」


 また同じことを聞いてしまう。でも、どうしても確認したくなる。


「続くよ」


 乃亜が即答する。


「君が嫌になるまで、ずっと」


「俺が嫌になるわけないじゃん」


「じゃあ、ずっとだね」


 乃亜が俺を抱き寄せた。腕の中で、彼の体温の熱を感じて落ち着く。


「ねえ、凪」


「うん?」


「明日、君に見せたいものがある」


「何?」


「それも秘密。でも、きっと気に入ってもらえると思う」


 乃亜の声に、何か特別な響きがある。楽しんでいそうな、少し緊張しているような。


「もったいぶるなあ」


「だって、サプライズは突然だから価値があるんだ」


 そんな会話をしているうちに、また眠気がやってきた。乃亜の腕の中で、安心して目を閉じる。


「おやすみ、凪」


「おやすみ、乃亜」


 今度こそ、朝まで眠れそうだと思った。


 ◇


 しばらくしても昨夜のことを思い出してしまい、眠れなくなって乃亜にちょっかいをかけてみる。

 反対側を向いていた、乃亜の背中をツンツンとつつく。


「……ねえ、もう寝たのか?」


 小声で話しかけると、乃亜の声がすぐに返ってくる。


「ううん。君が静かだから、起こしたくなかっただけ」


 布団の下で、足先を乃亜の足に触れさせた。足の内側をそっと撫で、絡める。

 触れ合った肌の温度で、気持ちがじんわりと満たされていく。


 すると、乃亜が振り返りゆっくりと身を寄せてくる。

 額が触れ合う距離で、囁くように言う。


「……さわってもいい?」


 頷く代わりに、俺はゆっくりと瞼を下ろす。


 乃亜の手が俺の身体に優しく触れる。キスは、昨夜よりも深くて、でもずっと優しい。

 唇の動きは、呼吸みたいに自然で静かだ。


 甘過ぎるキスに身体がほどけていく。ゆっくりと、確かめるように、お互いの温度を分かち合った。

 上顎に舌が触れるたび、くすぐったくて声が漏れる。


 ふたりの熱が、重なり合っていく。

 昨夜と同じはずなのに──違う。


 もう、“はじめて”じゃない。だけど、今夜のほうが切なくて、愛おしい。


 好きになりすぎるのが……正直、怖い。

 自分の輪郭が、彼の温度に溶けてしまいそうで。


「凪」


 名前を呼ばれるだけで、身体の深部が疼く。


「君を離したくない」


「俺も……」


 触れるたびに、もっと近くにいたくなる。

 目を閉じていても、彼の温度を感じるだけで、“俺”が大切にされてる気がするんだ。


「君のことが好きすぎて、苦しい」


 乃亜が俺の耳元で囁く。


「俺も、好きすぎて……どうしよう」


「どうしようもないね」


 フッと乃亜が噴き出す。

 そして、もう一段階キスは深まる――想いが、音もなく降り積もるように。


 この瞬間が、永遠に続けばいいのにと願わずにはいられない。

 そんなことを思いながら、俺は乃亜の温もりと溶け合っていった。



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