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雨とマルコポーロ――恋が香る夜に  作者: tommynya


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第14話 甘やかす日、選ばれた夜

 大学での昼下がり。いつものベンチで乃亜の隣に座っていた。夏の暑い日差しを避けるように日陰で涼む。両想いになって三日が経つけれど、まだ夢みたいで現実感がない。昨日も終電近くまで一緒にいたし、今日もランチからずっと一緒だ。これが現実だなんて幸せすぎる。


「なんか、ぼーっとしてない?」


 乃亜が心配そうに覗き込んでくる。


「してない」


「嘘。さっきから何度も同じページ読み返してるよ」


 指摘されて慌てて教科書を閉じる。確かに集中できていない。というより、隣にいる乃亜の方が気になって仕方がなかった。


「乃亜ってやっぱりイケメンだよな。顔綺麗すぎる」


 思わず口に出してしまい、自分でも驚く。


「慣れたら普通だよ。凪は、顔はかわいいけど、身体はかっこいいじゃん」


「身体って何だよ」


「骨格も筋肉のつき方も綺麗だし、手も綺麗だし……」


 乃亜が俺の手を取って、指先を軽く撫でてくる。人目につかない日陰のベンチとはいえ、こんなことされたら血管が破裂しそうになる。


「やっ、やめろよ、恥ずかしい」


「実は、君の恥ずかしがってる顔が好きなんだ」


 もう何も言い返せない。ずっとこんな日が続けばいいのになと思う。


 でも、現実はそう甘くない。就職活動はまだ続いているし、内定をもらえる保証もない。乃亜との関係は確かなものになったけれど、俺の未来はまだ不透明だ。


「今日もサロンは深夜シフト?」


「うん。でも、君も来るでしょ?」


 当然のように言われて、少し照れる。確かにこの数日で、サロンに通うのが日課になっていた。


「邪魔じゃない?」


「君がいると、仕事も楽しいよ」


 そんなこと言われたら、行かないわけにはいかない。


「俺いつも終電で帰るけど、何時まで開けてるの?」


「だいたい終電の時間でお客さんいなければ閉めるし、たまーに終電逃した人がふらっとやって来る時があって、その時は少し延長して営業することもあるかな」


「へーそんな感じなのか」


 俺は続けて言ってみる。


「今度、終電逃してサロンで過ごそうかな」


「いや、普通に俺の家泊まればいいじゃん」


「えっ、あっ、うん……」


 家に誘われて俺は挙動不審になる。もうお泊り? 早くない? と焦る。すると乃亜がニヤニヤして言う。


「あー変な事考えてるな? ふふ、別に取って食おうなんて思ってないけど」


 冷や汗が出そうになりながら答える。


「うっ、うん、就職決まったら……遊びに行くよ」


「あー待ち遠しいな!楽しみにしてるよ」


 テンション高めの声で言われて、緊張が高まる。

 近い将来起こるであろうビッグイベントに備えて、就職活動に励もうと密かに誓う。


 ◇


 数日後。講義が終わるのが遅くなり、俺は一人で大学からの帰り道を歩いていた。もう夕陽が沈もうとしている頃、スマホが震える。メールの通知だった。件名を見た瞬間、息が止まった。


『選考結果のご連絡』


 心理カウンセリング支援部署で働きたいと思っていた、本命の企業からだ。何度も落ちてきたから、今回もダメだろうな……。

 スマホを開くのをためらう。一旦目を閉じて深呼吸し、気持ちを落ち着かせる。そして、手が震える中、恐る恐るメールを開く。


『厳正なる選考の結果、貴殿を内定候補者として迎えたいと存じます』


 一瞬、文字が踊って見える。もう一度読み返す。間違いない。内定だ!

 

「えっ……受かった……やっと……俺にも、居場所ができた」


 必要とされる。それがどれだけ嬉しいことか。何度も落ちて、自分を否定されてきたから。この一通のメールが、どれだけ重いか。


 涙が出そうになるのをこらえて、スマホを握りしめる。

 やっと、息ができる。

 その時、最初に思い浮かんだのは、乃亜の顔だった。真っ先に思い出すのが好きな人って……たぶん俺の一番大事な人なんだな、と改めて実感する。


 急いでサロン「Minuit」に向かう。ポケットの中のスペアキーを握りしめながら、あの夜、乃亜が言った言葉を思い出す。


「いつでもここに来れるように。俺がいなくても、ここで待ってて」


 楽しい時も、辛い時も、俺にはもう帰る場所がある。乃亜がいる場所が。この鍵はその約束の証だ。


 速足で歩きながら、この知らせを聞いた乃亜はどんな顔をするかな? と想像する。

 サロンのドアベルを鳴らし、ゆっくりとドアを開ける。


「お疲れさま」


 いつものように乃亜が振り返り微笑む。杏奈さんは奥で在庫整理をしているようだ。


「疲れてる?紅茶、淹れるね」


「うん、ありがとう」


 いつものようにカウンターに座って、乃亜が紅茶を淹れてくれるのを眺める。でも今は、胸の奥でずっと、俺の喜びで生まれた妖精たちが跳ね回ってダンスをしていた。


「今日はEARL GREY(アールグレイ)| FRENCH BLUE 《フレンチブルー》にしようかな。ベルガモットの香りと青い矢車菊の香りが繊細で華やかなんだ」


「いいね。それにする」


 相槌を打ちながら、どうやって報告しようか考える。素直に喜んでいいのか、まだ実感が湧かない。でもきっと乃亜に伝えたら喜んでくれるよな……自分のことみたいに。


 紅茶を数口飲んで、カップを見つめたまま、ぽつりと呟く。


「……内定、出た」


 乃亜の手が止まる。驚いた表情のあと、ゆっくりと満面の笑みに変わる。


「やったじゃん」


「……ありがとう」


「……なんか、それだけ?」


 にやけるのを我慢しながら、うつむきながら紅茶を一口飲む。


「今なら、世界中に『俺のこと褒めて』って叫べるくらい浮かれてる」


 乃亜が目を細めて、カップを置く。


「じゃあ今日は、俺が君を褒め倒す日。……甘やかされる覚悟はできてる?」


「甘やかすって何だよ」


「君の好きなことを全部してあげる」


 そう言いながら、乃亜が俺の手を取る。


「今日は帰さないからね」


 一瞬ぎくりとする。でも、そのあと乃亜は小さく付け足す。


「……うそ。でも、願望は本音」


 言い方がずるい。でも、喜んじゃう俺は、もっとずるい。


「……じゃあ、約束通り……乃亜の部屋に泊まっていい?」


 そう言うと、乃亜の目が少し驚いたように見開かれる。


「本当に? いいの?」


「うん……就職決まったら乃亜の部屋で、朝まで一緒に過ごすって俺が言ったんだし……」


 乃亜はくしゃりと柔らかい表情になる。


「無理してないよね……? じゃあ今日は、特別な日にしよう」


 コクリと頷く。その時、色々と覚悟を決めていた。


 杏奈さんは「就職おめでとう。凪君。今日はもう閉めるから、ふたりで楽しんで」と、意味深な笑みを残して去っていく。


「お祝いに、スパークリングワイン買ってこよう」


「俺、お酒あんまり強くないよ」


「大丈夫。少しだけ」


 近くのコンビニで替えの下着を買って、乃亜の家に向かう。手を繋いで歩く道のりが、いつもより特別に感じられる。


 彼のマンションへは、サロンから徒歩10分ほどで到着した。公園の近くにある綺麗で素敵なマンション。


「いいマンションだね。緑も多くて」


「うん、まあ。親に用意してもらってて。サロン手伝ってるからそのご褒美みたいな」


「へー。20歳でこんな所に住めるなんて、乃亜ってボンボンなんだな」


「そうなのかな。自分ではよくわかんない」


 そうこう話してるうちに、乃亜の部屋の前に到着した。乃亜が指紋で玄関キーを開け、部屋に入れてくれる。


「緊張してる?」


「してない」


「嘘。手に汗かいてる」


「……してる」


 素直に認めると、乃亜が俺の手を握り直してくれる。


「俺も緊張してるよ」


「何で?」


「君を泊める初めての日だから」


 言葉がなくても、指先で伝わる気がする。この人となら、きっと大丈夫。部屋の説明を一通り受けたら、キッチンダイニングに案内される。


 乃亜は冷蔵庫から、茶色い液体が入ったガラスボトルを取り出す。


「水出しのダージリン・ファーストフラッシュを作っておいたんだ」


「え?」


「これ、特別な時にしか飲まない、ちょっと高いやつ。実は、凪がそろそろ来るんじゃないかな? って予想して仕込んでおいたんだ」


 それを聞いてちょっと驚く。俺が来るような気がしていたんだ。もう就職決まりそうだと思ってくれたのかな。何だか嬉しい。グラスに注がれた、ダージリンを一口飲んでみる。


「こんなの飲んだことない……香り高くて、さっぱりしてるんだな」


「うん。特別なお茶だからね……凪が俺の部屋に来てくれた日に、これを出せて良かった」


 俺は少し戸惑いながら答える。


「じゃあ……俺も、特別なお茶が似合う男になれたらいいな」


「もうなれてるよ。ずっと前から」


 乃亜がそう言って、二杯目をグラスに注いでくれる。薄い琥珀色の紅茶は、香りも味も今まで飲んだことのないものだった。


「美味い」


「良かった。君に気に入ってもらえて」


 一息ついて、食事の準備をする。乃亜がすぐに出来るものを色々作ってくれた。トマトとブラッタチーズ、バジルのカプレーゼ、ローストチキン、パスタもある。レストランみたいな食事でテンションは最高潮。


 スパークリングワインも開けて、パーティーはスタート。二人で小さな乾杯をする。


「内定おめでとう」


「ありがとう」


 グラスが触れ合う音が、静かな部屋に響く。アルコールのせいか、頬が少し熱くなってきた。美味しい料理と楽しい会話をして俺たちは満足する。すると乃亜が口を開く。


「もう寝ちゃいそうだから、そろそろ、シャワー浴びる?着替えも貸すから」


「うん」


 俺は先にシャワーを借り、着替えをする。借りたTシャツは思いのほか、ぶかぶかだった。鏡で見ると、子供みたいで恥ずかしい。


「かわいい……ぶかぶかで。似合ってる」


 リビングに戻ると、乃亜がそう言って見つめてくる。


「からかうなよ」


「からかってない。ガチで可愛い」


 これ飲んで待ってて、とグラスに入った冷たいハーブティーを俺にくれる。乃亜もすぐにシャワーを浴び、戻ってくると、髪が少し湿っていた。いつもより幼く見える。


「髪、乾かしてあげる」


「自分でやるよ」


「甘やかす日って言ったでしょ」


 乃亜は俺の後ろに回り込み、ドライヤーで髪を乾かし始める。ドライヤーの音と共に、乃亜の指が俺の髪を梳いていく。頭皮に触れる指先が心地よくて、目を閉じる。


「気持ちいい?」


「……うん」


「君の髪、柔らかいね」


 こんなことされるの初めてで、どう反応していいか分からない。でも、嫌じゃない。


「じゃあ、次は俺が乾かす」


「えっ、俺はいいよ」


「ダメだ、貸して」


 俺はドライヤーを奪い、乃亜の髪を乾かしてあげた。ふわふわした髪。初めて触ったし、気持ちよさそうにしてるのが、犬みたいでかわいい。


 髪が乾くと、ふたりでベッドに並んで横になり、手だけを繋いで天井を見上げる。


「今日は本当に特別な日になったね」


「うん」


 しばらくの沈黙のあと、乃亜が静かに名前を呼ぶ。


「……凪」


 この声だけで、もう落ちていけそうだった。


「何?」


「君が選ばれたのは、当然だと思う」


「そうかな」


「そうだよ。君は優しくて、真面目で、人の気持ちを分かろうとする。カウンセリングの仕事に向いてると思う」


 乃亜の言葉が、胸に染み渡っていく。


「ありがとう。そう言ってもらえると、自信が持てる」


「俺も、君の恋人でいられることが誇らしいよ」


「恋人……」


 改めて口にすると、実感が湧いてくる。俺たちは恋人同士なんだ。


「今度は、俺が君を支える番だね」


「支えるって?」


「君が疲れた時は、紅茶を淹れてあげる。落ち込んだ時は、話を聞いてあげる。頑張った時は、思いっきり褒めてあげる」


「それって……」


「結婚したらする約束みたいなものかな」


 さらりと言われて、顔が熱くなる。


「まだ早いだろ、そんな話。乃亜はまだ20歳なのに……」


「でも、将来のことは考えてる。君となら」


 真剣な表情で言われて、返す言葉が見つからない。でも、幸せな気持ちでいっぱいた。


「俺も……考える」


 小さく呟くと、乃亜が目を細めて言う。


「今日は君を甘やかすって言ったけど、俺の方が甘やかされてる気がする」


「どうして?」


「君が隣で、寝てくれているだけで、幸せだから」


 繋いだ手に、少し力が込められる。


「ずっと、そばにいていいのか?」


「当たり前だよ。君こそ、飽きない?」


「絶対に飽きない」


 俺は即答する。はまっているのは俺の方だから。乃亜を見ると、ホッとした表情をしている。


 外では虫の鳴き声が騒がしい。夏の夜は長くて、まだまだ時間がある。でも、このまま朝まで話していたい気持ちと、眠ってしまいたい気持ちが混在していた。


「おやすみ」


 その言葉を残し、俺は意識を手放そうとしていた。隣で「おやすみ」と小さく返す声が聞こえる。部屋は静かで、虫の鳴き声だけが響いている。


 ……眠れるわけがない。


 隣に、乃亜がいる。それだけで鼓動が煩くて、ベッドの中なのに落ち着かない。乃亜の体温がこんなにも近くにあるのだから仕方がない。目を閉じていても、その気配で普通じゃいられなくなる。


「……乃亜」


 小さく声をかけてみたけれど、返事がない。寝てしまったのか。一緒に夜を過ごすって、隣で眠ることだったのか……。なんだか拍子抜けしてしまう。


 多分、なにかあると思って、さっきシャワーの時、準備も済ませて覚悟も決めていたのに……。


 そっと横を向いて、彼の寝顔を見つめる。長い睫毛、通った鼻筋。本当に綺麗だと思いながら見惚れていた。


 こんなにも無防備な表情、初めて見る。睫毛が微かに震えている。乃亜の全てが綺麗すぎて、見ているだけでため息が出る。


 ――触れたい。


 そう思うと、自然と睫毛に触れ、頬をなぞる。この想いが本物だって、もう疑いようもない。見つめているうちに、引き寄せられるように、俺はそっと顔を近づけ、乃亜の頬にキスを落とした。ほんの軽く、空気に触れるくらい。


 その瞬間、わずかに睫毛が揺れ、彼の瞼が微かに動き、瞳がゆっくりと開かれる。その眼差しが、胸の奥を射抜いた。


「……寝たふり、限界だった」


 乃亜の目が、真っ直ぐに俺を見つめる。


「いまの……すごく嬉しかった」


「……次は、ちゃんと……唇にも……してみて?」


 囁くような声だった。胸の奥がじんわり熱くなり、俺はうなずく。そして、静かに顔を寄せ、そっと唇を重ねる。触れた瞬間、世界が止まった。


 柔らかくて、温かくて、これが乃亜の唇なんだと、やっと実感する。ほんの少し角度を変えるだけで、ぴたりと重なり馴染んでいく。微かな吐息が混じって、喉の奥がくすぐったくなる。


 何度も、何度も、優しく確かめるように、キスを重ねる。唇がふれるたび、胸の奥がきゅんと収縮していく。


「……凪」


 囁くように名を呼ばれた瞬間、乃亜の手が俺の背に回され、すっと引き寄せられる。


「もう我慢できないかも」


 その言葉のすぐあと、今までよりも深く唇が重なっていく。感情が一気に流れ込んでくる。甘くて、切なくて、嬉しくて、苦しくて……。


 唇と唇のあいだを、温かなものが優しくなぞっていく。境界線が曖昧になって、どこまでが自分で、どこからが彼なのかもう分からない。


 身体の奥が、ゆるやかに熱くなっていく。気づけば俺は、乃亜の腕の中にやわらかく包まれていた。


 彼の鼓動が、まるで自分のもののように響く。息をするたび、心の中心でひとつずつ、想いが重なっていくようだった。


 すぐそばにあるこの温度が、きっと、恋の輪郭なのだと思う。


 この夜が、ふたりの記念日になる。まだその先は、言葉にするには少し怖いけれど。それでも、確かに伝わっていた。


 ──朝になっても、好きでいてくれるかな。


 ほんの少しの不安と、それ以上の願いを胸に、俺は、彼にそっと身を委ねた。

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