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第三章:裏側の入口

カゲロウの背中について行く。

彼の歩く速度は速く、迷うことなく校舎の影、通用門、そして人気のない路地へと僕を導く。僕の拳はまだヒリヒリと疼き、現実を刻み続けている。


「『灰塚』って…何ですか?」

「ん? ああ、簡単に言うとね」

カゲロウは振り返らずに答える。銀髪が夕風に揺れる。

「さっきの影みたいな『忌みいみび』ってヤツを掃除する、裏方さんの集まりさ。ま、清掃業ってとこかな」


忌み火。あの不気味な影に名前があった。

「…あれは、なんなんですか?」

「人間の『負の感情』の残滓が、長い時間をかけて形になったものだよ。妬み、憎しみ、絶望…そんなものが澱んで、闇をまとって動き出す。奴らは『炎』…特に強い感情から生まれた炎が大嫌いでね。お前の『赫怒かっと』なんて、最高の標的だ」


カゲロウは路地の突き当たり、古びたレンガ塀の前で足を止めた。何もない。行き止まりだ。

「で、ここが…?」

「入口さ」


彼はレンガの一箇所に手を当てた。掌の炎の紋章が微かに光る。すると、レンガが水紋のようにゆらめき、色が褪せ、向こう側が見えてきた。そこには、古びた石畳の路地と、洋風の古い建物が立ち並ぶ町並みが広がっている。時間帯は同じ夕方なのに、空の色が少し違う。こっちの世界よりも、少し紫がかっている。


異界いかい狭間はざま…って呼んでる所だ。表の世界と裏の世界がごちゃ混ぜになった場所でね、俺たちのような者が主に使う通路なんだ」


呆然と見つめる僕をよそに、カゲロウはすんなりとその“入口”をくぐった。仕方なく、僕もついていく。


通りを一歩踏み出した瞬間、空気が変わった。湿り気を含み、どこか鉄の味がする。聞こえてくるのは、遠くの鐘の音と、聞き慣れない鳥の鳴き声。町並みは寂れているが、人の気配はある。遠くで誰かの笑い声も聞こえる。


「ここにも人が?」

「いるよ。俺たち『灰塚』の関係者や、事情を知る一般人、それに…いろんなものがね」


カゲロウは歩きながら、細い路地を曲がり、大きな鉄の扉がついた建物の前に来た。看板には「喫茶 はい」とある。

「ここが支部の一つだ。ほら、入れ」


中は思ったより明るく、普通の喫茶店だった。カウンターに客が数人、テーブル席にも人影がある。皆、僕とカゲロウが入ってくるとちらりと視線を寄越したが、すぐにそれぞれの会話に戻る。


「あら、カゲロウ。随分と青臭い子を連れてきたわね」

カウンターの中で、黒いエプロンをした女性が顔を上げた。年齢は三十前後か。目元の優しい笑顔が印象的だ。

「保護対象よ。今日、学校で『忌み火』に襲われてるとこを発見した。自分で炎を灯して撃退しようとしてたからね、もう手遅れだ」

「あらあら…大変だったわね」


女性は僕に向かって優しく微笑んだ。

「初めまして。ここではミズキって呼ばれてるの。ここは表の世界で何かあった時の避難所でもあるから、安心して」


その温かい言葉に、少しだけ心が解けた。でも、疑問は渦巻く。

「…なんで、俺だけが? なんで、炎を?」

「それはね、誰にでもある可能性だから」

別の声がした。奥のテーブルから、眼鏡をかけた初老の男性が立って近づいてくる。背広姿で、学者のような風貌だ。

「強い感情は誰もが持つ。だが、ごく一部の者の魂は、その感情を『炎』という形で外部に放出してしまう。あなたは『怒り』…おそらくは絶対に譲れない何かを守ろうとする『赫怒』に目覚めた。それは、あなたの本性を表している」


僕は拳を握りしめた。守ろうとするもの…母の笑顔、大輝の無邪気な背中、平凡な日常。それを奪われそうになった時の、あの沸き立つ感情。

「…この力、消せますか?」


一瞬、店内が静まり返った。カゲロウが呆れたようにため息をつく。

「はぁ? せっかく手に入れたものを、捨てる気か?」

「こんなもの、欲しくないです。普通でいたい」

「もう遅いよ」

カゲロウの声は、突然冷たくなった。

「一度炎を灯した者は、『忌み火』から逃げられない。お前が何もしなくても、奴らはお前を嗅ぎつけ、お前の周りの人を傷つけながらやってくる。お前が『普通』を望むなら…」


彼は僕を真っ直ぐ見つめた。

「強くなるしかない。炎を制御し、奴らを倒せるだけの力をつけるんだ。さもなくば」


彼の視線が重い。

「守りたいものを、自分で炎に焼くことになるぜ」


「…っ」


胸が押し潰されそうだ。選択肢など、最初からなかった。一歩踏み出した時から、僕はこのレールの上に立っていた。


ミズキが優しく僕の肩に手を置く。

「怖がらなくていいの。ここには味方がたくさんいる。訓練だってする。あなたは一人じゃないわ」


その時、店内の壁に嵌められた古いランプが、突然、不気味な緑色に光り始めた。一同の顔が引き締まる。

「…来たな」

眼鏡の男性が呟く。

「東街区で、中位の『忌み火』が複数確認。住民の避難誘導が必要だ」

カゲロウがくるりとこちらを向いた。その目は、さっきまでの軽薄さが嘘のように鋭い。

「煉。見学だ。行くぞ」

「え? でも、俺…」

「いいからついて来い。お前がこれから向き合う世界を、この目で見るんだ」


彼は鉄の扉を勢いよく開けた。外には、もう紫の闇が降り始めている。異界の夜だ。


迷う間もなく、カゲロウは闇の中へ飛び込んでいった。


振り向けば、ミズキが小さくうなずいている。僕は焼け爛れた拳を見つめ、一呼吸置いて、その背中を追った。


守りたいものがあるなら。

知らなきゃいけない。

この世界の、本当の闇の深さを。

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