第二章:気配(けはい)の正体
放課後の廊下は、騒がしかった。
下駄箱の前で、大輝が心配そうな顔を覗き込んでくる。
「本当に大丈夫かよ? 医者行ったほうが…」
「平気だよ。ちょっと、考え事があって」
「はぁ…」
大輝は疑わしそうに眉をひそめたが、結局、肩をすくめた。
「ま、無理すんなよ。明日は元気な顔してこいよな!」
「…ああ」
彼が野球部の練習へと走り去る背中を見送る。その無邪気な背中が、またしても胸を締め付ける。守らなきゃいけない。この日常を。彼の笑顔を。
僕は鞄を抱え、中庭へと向かう足を踏み出した。
気配は消えていなかった。
むしろ、濃くなっている。
夕陽が校舎を赤く染め、長い影を地面に引きずっていた。その影の一つが、妙に深い。風もないのに、木々の葉がこすれ合う音がする。ざわ…ざわ…。不自然なリズム。
「…誰かいるのか?」
声は、思った以上に低く、震えていた。
答えは返ってこない。
代わりに、影が動いた。
地面を這うように、校舎の壁面を伝い、まるで生き物のように伸びてくる。それは木々の陰から溢れ出し、僕の足元をゆっくりと覆い始めた。冷たい。底なしに冷たい感触が、スニーカーの上からも伝わってくる。
「なんだ…これ…」
後ずさりする。影はそれに合わせるように、速度を増す。視界の端で、何かがちらりと光った。鋭く、不吉な光。
本能が叫んだ。
危ない。
僕は咄嗟に跳んだ。次の瞬間、さっきまで立っていた場所を、影の「棘」が貫いていた。コンクリートが、豆腐のように削れている。
「ッ!」
鼓動が一気に速くなる。拳が熱くなる。あの感覚が、押し寄せてくる。胸の奥で、どす黒い炎が渦巻き始める。
影は形を変えた。ゆらゆらと揺らめき、ぼやけた人型のようなものになった。目らしきものが二つ、虚空に浮かび、僕を見下ろす。
「…人間か」
「お前を…探していた」
声は、二重にも三重にも重なっていた。地面から、壁から、あらゆる方向から響く。それは言葉というより、悪意そのものが音になったようだった。
「なんで…俺を?」
「炎がある…あの忌まわしい炎の匂いがする…」
影が伸びてくる。手のように形作られたそれが、僕の喉元を目がけて襲いかかる。速すぎる!
避けられない。
その時、拳が燃えた。
「ぐあっ!?」
意志とは無関係に、炎が吹き出した。赤く、荒々しい炎が、僕の拳を覆い、目の前の影の手を焼き尽くした。シューッ! という唸りと共に、影は引っ込み、苦悶のようなうめき声を上げる。
「この…炎…!」
影が怒った。全体が沸き立つようにうねり、一気に巨大化する。校舎の壁一面を覆い尽くすほどの闇が、僕の上に崩れ落ちてきた。
逃げろ。
でも、足が動かない。恐怖で体が凍り付いている。炎は拳だけだ。全身を守れるほど強くはない。
(終わりか…?)
また、守れないのか。
その絶望が、胸の奥の炎に油を注いだ。
「ああああああっ!!!」
叫びと共に、もう一方の拳にも炎が灯った。両手を前に突き出し、崩れ落ちてくる闇に向かって、炎をぶつける。光と闇がぶつかり合い、火花が散る。
熱い。腕が、骨が、溶けていくようだ。でも、引かない。引き下がれない。ここで負けたら、全てがまた奪われる。
影は押し返してくる。炎がじりじりと後退する。力が足りない。知識も技術も何もない僕にできるのは、ただ燃やすことだけだ。
その時、背後から風が吹いた。
「やれやれ。随分と派手な目にあってるじゃないか、新人くん」
軽い、どこか茶目っ気を含んだ声。
振り向く間もなく、一筋の「風」が僕の横を駆け抜けた。それは風ではなく、人だった。白い制服を翻したその人物は、手に持った何か―細い棒のようなもので、空を切った。
「散れ」
その一言で、巨大な影が真っ二つに裂かれた。
闇が霧のように散っていく。夕焼けの光が、再び中庭に戻ってきた。ただ、コンクリートに刻まれた無数の傷だけが、さっきの戦いが現実だったことを物語っている。
僕は膝をついた。炎は消えていた。代わりに、激しい脱力感と、燃え尽きたような虚無が体を満たす。
白い制服の人物が、ゆっくりとこっちに向き直った。青年だった。年の頃は二十前後か。銀髪が揺れ、細い目が興味深そうに僕を見下ろしている。
「『赫怒』の持ち主か。随分と…青臭い炎だな」
「…あなたは?」
「ああ、失礼。俺は『灰塚』の一員だ。名前はカゲロウ。ようするにね」
彼はにっこりと笑い、溶けていく闇の残滓を顎でしゃくった。
「さっきのアレを始末するのが、仕事の一つなんだ。そして…」
その目が、鋭く光った。
「お前みたいに、訳も分からず『炎』を灯しちゃった可哀想な新人を保護するのも、仕事なんだよ」
カゲロウが一歩近づく。僕は無意識に体を引く。
「さあ、行こう。ここはもう安全じゃない。連中は一度匂いを覚えたら、しつこくついてくるからな」
彼は手を差し伸べてきた。その手の平には、小さな炎の紋章のようなものが、一瞬、浮かび上がった。
僕は、焼け爛れた両拳を見つめた。痛み。熱。恐怖。そして、微かな、ほんの少しの…確信。
あの一歩は、間違いじゃなかった。
この世界には、闇がある。
そして、闇と戦う者もいる。
僕は、ゆっくりと立ち上がり、カゲロウの手を取らないで言った。
「…俺は、煉です」
カゲロウの笑顔が、少し深くなった。
「よろしく、煉。じゃあ、これからちょっとだけ…」
彼はくるりと背を向け、校舎の影へと歩き出した。
「…世界の裏側を見せてあげようか。」




