第一章:灰の中から
目が覚めた。
天井が、見覚えのある、安っぽい木目だった。
…あれは、夢か?
ゆっくりと体を起こす。布団の匂い。朝の冷たい空気。いつもの小さな部屋。何事もなかったように、平凡な朝がそこにあった。
「ああ…」
安堵の息が、すぐに喉で詰まった。
拳が、ひりひりと疼いている。見つめる。こんがりと、妙な色に変わった皮膚。火傷の痕だ。昨日の山道。炎。影。全てが、脳裏を一瞬で駆け巡り、胃が攣った。
夢なんかじゃない。
「煉! 朝ご飯よー! 遅刻するわよ!」
階下から母の声。いつもと同じ、少し呆れたような、でもどこか温かいトーン。その普通が、突然、恐ろしいものに感じられた。僕は、あの炎で、何かを壊してしまったんじゃないか。この日常に、ひびを入れてしまったんじゃないか。
「…は、い」
声が裏返った。ごくん、と唾を飲み込む。変わり果てた拳をぎゅっと握りしめ、布団から這い出た。
学校への道も、いつもと変わらない。隣の坂道を駆け上がる後輩たち。自転車のベル。ただ、全てがとても遠く、薄っぺらく聞こえた。拳がポケットの中で、熱を持っているような錯覚がする。
「おーい、煉! どうしたよ、そんな沈んだ顔して」
肩をポンと叩かれた。振り向くと、同じクラスの大輝が、いつもの大きくて無邪気な笑顔を向けていた。
「…ああ。なんでもない。少し、寝不足で」
「はぁ? 夜更かしでもしたのか? まさかお前、ついに彼女でも…」
「違うってば」
大輝の雑談が、耳に入ってはこぼれ落ちる。彼の笑顔が、なぜか胸を締め付けた。守れなかったものの形を、彼がふいに重なって見えた。
教室。着席。ホームルームのチャイム。机の木目のシミをぼんやりと見つめる。
昨日の「あれ」は、なんだったんだ。
あの炎は。
この、いつもと何も変わらない世界で、いったい何を燃やしたというんだ。
「…煉」
名前を呼ばれて、はっと思う。教室中が見ている。担任の先生が、少し心配そうな顔で立っていた。
「挨拶、二回目だよ。大丈夫? 顔色が悪いけど」
「す、すみません…」
クラスの誰かがくすくす笑う。いつもなら、僕も照れくさそうに笑うところだ。今日は、その笑い声が、鋭い針のように肌を刺す。
午前の授業が始まった。黒板の文字。先生の声。全てが、ガラス越しの景色のようだ。拳の疼きだけが、生々しい現実として、ずっと続いている。
そして、昼休み。
屋上で弁当を広げた。大輝が野球部の話を矢継ぎ早にしている。空はどこまでも青く、雲がゆっくりと流れていく。完璧な平和。まるで何もなかったかのように。
「…あれ?」
大輝の手が止まった。フォークを構えたまま、校舎の影が見える中庭の方を見つめている。
「どうした?」
「ん…いや、なんか、変な気配って言うか…あそこに、誰かいるのかな」
僕も視線をそらす。確かに、中庭の木々の影が、少しだけ濃く、淀んでいるように見えた。そして、昨日の山道で感じたあの、冷たい、ずるりとした気配が、背筋を這い上がる。
「見間違いじゃね?」
「…そう、かな」
大輝は首をかしげ、また弁当に手を付けた。でも、僕の目は、あの影から離れなかった。鼓動が少し早くなる。拳が、ポケットの中で、再び熱を帯び始める。
違う。
何かが、間違いなく、ここに来ている。
平和は、もう終わった。
僕があの炎を灯した時から、何かが引き寄せられた。
この平凡な学園の、どこかに。
放課のチャイムが、突如、戦場の喇叭のように聴こえた。
僕は、ゆっくりと立ち上がる。大輝が「どうした?」と聞く声も、遠い。
知っていた。
あの一歩は、引き返せない一歩だったんだ。
守りたいものがあるなら、こっちへ進むしかない。
僕は、拳をポケットからそっと抜き出し、じっと見つめた。変色した皮膚の下で、あの熱い「何か」が、静かに、確かに、脈打っていた。
――さあ、次は、どこへ踏み出す?




