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ヴォジャノーイ、あるいは魔王の鯨のなかで  作者: 井上数樹


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第1話:生き残りたち

 その政治将校と私は、原子力潜水艦『ヴォジャノーイ』の最後の生き残りだった。


 つい三十分前のことだ。巨大な振動が艦全体を襲い、私たちを水圧から守ってくれていた鋼の砦は断末魔と共に海底へと着底した。


 傷口から流れ込んだ膨大な海水が瞬く間に艦上部を満たし、艦長をはじめとした全ての上級船員を溺死させた。


 もちろんこの大事件は他人事などではない。私は一等水兵として、艦前部の魚雷発射管室に詰めていた。爆発の瞬間、たまたま機械の修理のために離れていたので、発射管室に流れこんだ水に押し流されずに済んだ。


 もっとも、今の状況は幸福だとか幸運とは程遠い。


 むしろ水圧に圧し潰されて一瞬でぺちゃんこになった連中の方が、間違いなく幸せだっただろう。


 衝撃で破損した原子炉からは放射能が漏れ出している。致死量だ。機関室は水浸しにはなっていないが、今頃死体だらけだろう。他にも、有毒ガスの漏出で下級船員たちも全員やられた。


 この大惨事をもたらしたのが、共和国の残忍で狡猾な潜水艦によるものか、それともばら撒かれた爆雷に触れたのかは分からない。今となってはどうでも良い。


 むしろ私は、自分ひとりだけを生かした運命そのものを呪いたい気持ちだった。


 たまたま防毒マスクを着けていたこと、たまたま水の流れてこない場所にいたこと。その厄介な悪運のおかげで、これからどうやったら楽に死ねるか思案する羽目に陥っている。


 私がいる作業室は、縦に4m(ミェートリ)、横に僅か3m。高さは2mを切っている。このほんのわずかな広さで機械を直さなければならないのが潜水艦だ。


 ましてや全長200mの『ヴォジャノーイ』を修復する能力など無い。


 この艦は、今や死に絶えた鯨だ。


 私は、その鯨の死骸の腹に残された、消化不良の餌みたいなものだ。


「……ははっ」


 力の抜けた笑い声が口から洩れた。それと一緒に、気力も体力も意思も、何もかもが抜け落ちていった。


 どうあっても死ぬしかない状況。泳いで海面まで浮上する? 船外に出た瞬間にぺしゃんこだ。


 よしよし、仮に私に水圧に対抗する鋼の肉体があるとしよう。しかし、外の水温は限りなく零に近い。身体が水圧に耐えられたとしても筋肉が動かない。


 では、脚に小さなスクリューでも括りつけて海面まで押し上げてもらうというのは? 名案! しかし海面付近を覆う5mの氷の壁はどうしようか? 頭に角でもつけて突き崩す???


 ……実際のところ、私ひとりの力では自殺のためにハッチを開けて海水を流し込むことすらできないだろう。


 一番現実的で、かつ簡単な方法は、防毒マスクを取ってしまうことだ。目いっぱい顔に押し付けていたから良い加減に痒くなってきた。早く楽になりたい。


 ただ、ひとつ問題があるとすれば、ガスで死ぬのはかなり時間が掛かるということだ。楽には死ねない。そのことは、作業室のすぐ外で折り重なって倒れている戦友たちが教えてくれている。


 皆、顔中の穴という穴から血を溢れさせて死んでいた。喉を掻きむしり、紫色に膨れ上がった舌を血混じりの泡と一緒にだらりと垂らしている。


 こうして厳重に防御している私ですら、ゴーグルで守っているはずの目に微かに痒みが刺し込んできている。喉の奥に小さな棘の生えた粒が紛れ込んでいるかのようだ。


「……どこかに銃は無いかな」


 銃なら手っ取り早い。しかし、古来より船に積み込まれる銃器は全て、艦長室のすぐ近くに仕舞われるのがセオリーだ。万が一の反乱があってはいけないから。そして、そのエリアはとっくに水没してしまっている。


 首を吊ることも考えたが、そうなるともうガスで死ぬのと大差ない。一応試しに首に縄をかけてみたけれど、潜水艦の天井が低すぎてぺたりと足裏がついてしまうのは笑えた。


 そう、私には笑う以外にできることなどなかった。それが貴重な酸素を無駄に浪費する行為だとしても。もはや合理的に物事を考える力など、私の脳味噌には残されていなかった。




『前部ブロック。生き残りがいるのか?』




 だから、声が聞こえてきた瞬間、私は天使か何かに呼ばれたのかと思った。



 そしてすぐに、スピーカーから流れたその声の主が、泣く子も黙る政治将校(コミッサール)殿のものであることに気づいた。

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