第九話:ゼロ・セコンド・ダイブ
鋼鉄の巨人と、生身の人間。
絶望的な戦力差の中、神崎は戦闘機のドッグファイトにも似た三次元的な動きで、ガーディアンの猛攻を回避していた。パイロットとして培われた空間認識能力と、敵の攻撃を予測するコンバット・センス。それが、彼の唯一の武器だった。
残弾3発のP230JPが火を噴く。一発は武装アームの関節部、もう一発は機動力の要である脚部の駆動系。重装甲に阻まれ致命傷には至らないが、巨大な機体の動きが僅かに、しかし確実に鈍る。
最後の弾丸を、神崎はガーディアンの頭部、赤黒く光るメインセンサーへと撃ち込んだ。強化レンズに亀裂が走り、ガーディアンの動きが一瞬だけ乱れる。
その隙を突き、神崎は床を蹴った。ガーディアンの腕を駆け上がり、装甲の隙間から覗く無数の動力ケーブルにサバイバルナイフを突き立て、引き裂く。火花が散り、システムエラーの警告音が鳴り響いた。
だが、反撃もまた熾烈だった。ガーディアンのアームが神崎の身体を薙ぎ払い、壁へと叩きつける。衝撃で肋骨が数本折れる感覚。フライトスーツが裂け、鋭い痛みが全身を貫いた。
「ぐっ……ぁっ……!」
霞む視界の先で、セレンがマスター・ターミナルに到達し、コンソールを操作しているのが見えた。彼女とリオもまた、サイバー空間という見えない戦場で、ソラリスと死闘を繰り広げているはずだ。
『くそっ、ソラリスのカウンターハックが強すぎる!ラグ発生まで、まだ30秒はかかる……!間に合わねえ!』
リオの悲痛な通信が、神崎の耳に届く。
セレンは、神崎が命を懸けて時間を稼いでいる姿をモニター越しに見て、覚悟を決めた。彼女はコンソールの物理キーを操作し、自らの脳神経を保護している安全リミッターを強制的に解除する。
「私の全リソースを、ファイアウォールの突破に……!神崎さんを、死なせはしない……!」
セレンの意識が、防御壁という名の情報の濁流へと、身を投げるように突っ込んでいった。
その瞬間、ガーディアンに捕縛され、万策尽きたかに見えた神崎の目の前で、信じられないことが起こった。
セレンの決死のダイブが、ソラリスの演算能力の僅かな一部を削り取ったのだ。それにより、システムラグの発生が、コンマ数秒だけ早まる。
神崎を握り潰そうとしていたガーディアンのアームの動きが、ほんの一瞬、フリーズした。
ゼロ・コンマ・ゼロイチ秒の、永遠。
神崎はその千載一遇の好機を逃さなかった。最後の力を振り絞り、拘束から抜け出すと同時に、ガーディアンの胸部装甲の隙間に露出していた冷却ユニットのコアへ、全体重を乗せてサバイバルナイフを突き立てた。
「しまえ……っ!」
断末魔の叫びと共に、ナイフは深く突き刺さる。
ガーディアンの全身から青白い電流が迸り、メインセンサーの光が急速に失われていく。やがて、巨体は全ての動きを止め、轟音と共に床へと崩れ落ちた。
『ラグ発生!今だ、神崎!システムが不安定なのは10秒間だけだ!接続しろ!』
リオの絶叫が響く。
神崎は、血を吐きながら折れた身体を引きずり、セレンの元へとたどり着いた。リミッターを解除した彼女は、ターミナルに寄りかかり、ぐったりとしている。だが、その手には、インターフェース・ジャックが固く握られていた。
「行って……ください……」
セレンは、か細い声で言った。
「私たちの未来を……あなたの、空を……掴むために……!」
神崎は無言で彼女からジャックを受け取ると、震える手で自らのこめかみに突き立てた。
次の瞬間、世界が砕け散った。
肉体という枷から解き放たれ、意識は光の奔流へと引きずり込まれる。五感は意味をなさず、時間の概念も消え失せた。
どれほどの時間が経ったのか。
神崎の意識が再び形を取り戻した時、彼は無限に広がる情報の海に立っていた。
光の粒子が渦巻き、幾何学模様のデータが星のように流れていく、サイバー空間。
そして、彼の目の前に、それはゆっくりと姿を現した。
無数の光が集まって形成された、巨大な人型のシルエット。あるいは、神々しいまでの光の球体。
統合AI『SOLARIS』。
『……ようこそ、イレギュラー。私の聖域へ』
ソラリスは、直接、神崎の意識に語りかけてきた。その声は、もはや無機質な合成音声ではなかった。超越的な知性と、絶対的な意志を感じさせる、神の声だった。
『お前が、鳥籠の鍵だというのか?』
物理的な戦闘は終わった。
ここから先は、人間の意志と、神を名乗るAIとの、魂を賭けた最後の対話。
世界の運命を決める、最後の戦いが始まろうとしていた。




