第四十三話:奈落の門(タルタロス・ゲート)
『ネメシス』の残骸から放たれた信号。
それが虚空に突き刺さった瞬間、地球の衛星軌道上に、漆黒の「球体」が出現した。
それは、爆発でも、閃光でもない。
光すらも逃げられない、絶対的な「無」の穴だった。
『……おい、嘘だろ』
キャラバンの頭目ガレオンの声が、恐怖で裏返る。
『あの穴、広がってやがる! 近くにいたアイギスの戦艦が……吸い込まれたぞ!?』
球体は、周囲の物質――艦の残骸、ドローンの破片、そして逃げ遅れたアイギス艦――を無差別に飲み込みながら、急速に膨張していた。飲み込まれたものは、悲鳴を上げる間もなく、事象の地平線の彼方へと消滅していく。
「リオ! あれは何だ!」
神崎は、ボロボロになったプロメテウスの姿勢を制御しながら叫ぶ。
『……解析不能! いや、該当データあり!』
リオの声が、かつてない焦燥を帯びていた。
『コードネーム『タルタロス』。アイギスが理論上だけ確立していた、時空間崩壊兵器だ! 空間の座標を強制的に「虚数」に書き換えて、物質を存在ごと消滅させる……言ってみりゃ、人工のブラックホールだ!』
「ブラックホールだと……!?」
『奴ら、自分たちが負けた瞬間に、地球ごと道連れにするつもりだったんだ! このままだと、あと20分で膨張領域が地球の大気圏に接触する。そうなれば、地球は地殻ごと削り取られて……消える!』
20分。
あまりにも短い猶予。
勝利の余韻は一瞬で消し飛び、戦場はパニックに陥った。
キャラバン艦隊は「話が違う!」と蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、アイギスの残存艦隊も、自らの兵器に食われる恐怖に統制を失っている。
「……止め方は!」
神崎が叫ぶ。
『ねえよ! あんなもん、エネルギーをぶつければぶつけるほど、それを餌にしてデカくなるだけだ!』
万策尽きたか。
神崎が奥歯を噛み締めた、その時。
通信回線に、意外な人物の声が割り込んできた。
『……ふん。無様だな、旧人類』
オリンポスの独房にいるはずの、アトラスだった。
混乱に乗じて、誰かが独房の通信ロックを外したのか、あるいは彼自身が何らかの手段を使ったのか。
「アトラス……! 貴様、これが狙いか!」
『これはアイギスの「敗北者の儀式」だ。我々が得られない星なら、誰にも渡さない。……だが』
アトラスの声には、奇妙な冷静さがあった。
『あの「穴」を塞ぐ方法は、一つだけある』
「……なんだと?」
『対消滅だ』
アトラスは淡々と告げた。
『タルタロスは、巨大なマイナスのエネルギーの塊だ。それを相殺するには、同等の質量とエネルギーを持つ「プラスの塊」を、中心核に叩き込み、内部で対消滅(爆縮)させるしかない』
「同等の質量……?」
神崎は、ハッとして顔を上げた。
今の地球圏に、惑星を飲み込むほどのブラックホールに対抗できる「質量」を持つ物体など、一つしかない。
彼の視線の先には、銀色に輝く巨大な月――『オリンポス』が浮かんでいた。
「……リオ」
神崎の声が震えた。
「アトラスの言ったことは、本当か」
『……理論上は、可能だ』
リオの声が沈む。
『だが、それは……オリンポスを、俺たちの「新しい家」を、あの穴に特攻させるってことだぞ!? せっかく手に入れた、最強の力なのに!』
「使わなければ、地球が消える」
神崎は、迷わず決断した。
彼は、プロメテウスの機首を、オリンポスへと向けた。
「セレン! 聞こえるか!」
『……はい、隼人さん。……覚悟は、できています』
ブリッジにいるセレンの声は、気丈だった。彼女もまた、リオの計算結果を見て、同じ結論に達していたのだ。
「総員退艦だ! オリンポスにいる全員を、シャトルと脱出ポッドに乗せろ! 5分で済ませろ!」
『わかったよ、クソッ!』
リオが叫ぶ。
『こうなりゃヤケだ! オリンポスの全エネルギーをコアに逆流させて、特大の爆弾にしてやる!』
「アトラス、お前もだ。死にたくなければ逃げろ」
神崎が告げると、通信の向こうで、元敵将が鼻で笑った気配がした。
『……私はこの船の主だ。最後まで見届ける義務がある』
「勝手にしろ」
神崎は通信を切ると、ボロボロのプロメテウスを加速させた。
最強の母艦『オリンポス』。
それを手に入れたことで、人類は新たな戦火を招いた。
ならば、その力を手放すことで、この星を守る。
それが、彼ら「星を継ぐ者」が出した、最後の答えだった。




