第三話:偽物の空の下で
通路の先に広がっていたのは、狂気じみた、そして同時に神々しいほどの絶景だった。
眼下に広がるのは、途方もなく巨大な球状の空洞。その中心には、太陽と見紛うばかりの巨大な光源が静かに輝き、地上と変わらぬ光を投げかけている。そして、その光に照らされているのは、一つの都市ではなかった。
まるで歴史の教科書を立体的に広げたかのように、そこにはあらゆる時代の、あらゆる様式の街並みが、巨大な区画ごとに存在していた。
石畳とゴシック建築が美しい中世ヨーロッパ風の街。赤提灯が揺れ、ネオンが滲む昭和レトロな日本の歓楽街。幾何学的な建造物が立ち並ぶ、近未来のサイバーパンク都市。その隣には、あろうことか、茅葺屋根の家々が並ぶ、日本の原風景のような農村まで広がっている。
それぞれの区画の上には、それぞれ異なる「空」があった。ある区画は抜けるような青空、ある区画は燃えるような夕焼けに染まり、またある区画では穏やかな小雨が降っているようにも見えた。完璧に管理された、箱庭の天候。
ここは、人類の歴史そのものを封じ込めた、巨大な地下シェルター。神崎は、そのあまりのスケールに言葉を失い、ただ立ち尽くした。
『ようこそ、統合生活維持領域“ジオ・フロンティア”へ』
先ほどの合成音声が、再び頭の中に直接響くように語りかけてくる。
『私は当領域を統括管理するAI、“SOLARIS”。あなたの混乱を理解します、神崎隼人三等空尉。順を追って説明しましょう』
ソラリス、と名乗ったAIは、感情の介在しない平坦な声で、信じがたい事実を紡ぎ始めた。
ここは西暦2742年の世界であること。
かつて人類は、環境汚染、資源の枯渇、そして終わりなき戦争の果てに、地上を放棄したこと。
このジオ・フロンティアは、人類が種の保存のために作り上げた最後の楽園であること。
そして、神崎が迷い込んだ地上は、ソラリスの管理下でテラフォーミングが行われている「環境再生区域」であり、生態系の頂点として、遺伝子工学によって復活させた恐竜たちが放たれていること。
『あなたは、時空間の歪みに巻き込まれた、過去からの漂着物です。あなたの存在は、我々の歴史データベースの記録と一致しますが、生体情報としては未登録のイレギュラー。故に、保護対象と判断されました』
時空間の歪み。漂着物。AIの淡々とした説明は、神崎の理解を遥かに超えていた。俺は、700年以上も未来に飛ばされてしまったというのか?
思考が停止した神崎の前に、通路の向こうから数人の人影が現れた。男が二人、女が一人。彼らは、様々な時代の服装が混在するこの世界において、白を基調としたシンプルで機能的な衣服を身につけていた。
神崎は警戒し、咄嗟に身構えた。だが、彼らから敵意や緊張は一切感じられない。それどころか、その瞳に浮かんでいるのは、純粋な好奇心だけだった。まるで、博物館で珍しい化石でも見るかのような眼差し。
「すごい……本当に“旧人類”だ。ソラリスの通知は本当だったんだね」
「見て、彼の服。21世紀初頭の軍隊のものだ。レプリカとは質感が全然違う」
「瞳の色が、少し濁っている……。これが、ストレスに晒された旧人類の特徴?」
彼らの会話は、悪意のない、無邪気な残酷さで神崎の心を抉った。自分は、彼らにとって観察対象でしかないのだ。
この世界では、戦争も、飢餓も、貧困もない。ソラリスが全てを管理し、人々は水や食料の心配をすることなく、ただ自分の好きな時代の文化を享受し、生きたいように生きる。労働は、自己実現のための創作活動や探求へと姿を変え、生存競争という概念そのものが過去の遺物となっていた。
「はじめまして、神崎隼人さん」
女性が一人、一歩前に出て、にこりと微笑んだ。
「私はリナ。ソラリスに、あなたのナビゲーター(案内役)に指名されました。ようこそ、私たちの世界へ。怖いところじゃないから、安心して」
彼女の屈託のない笑顔は、あまりに平和で、神崎がいた世界の常識とはかけ離れていた。国家も、軍隊も、命を懸けて守るべきものも、ここには存在しない。彼のアイデンティティは、この世界では何の意味もなさなかった。
リナに促されるまま、神崎は白い通路から、巨大なドーム空間へと足を踏み出した。最初に案内されたのは、移動用の浮遊リニア乗り場だった。眼下に広がる、歴史のパッチワークのような光景を眺めながら、リニアは音もなく滑り始める。
「まずは、あなたに休息と、適切な環境を用意します。ソラリスが、あなたの時代を完全に再現したセクターを準備してくれました」
リナが指し示した先で、リニアがゆっくりと速度を落としていく。
見えてきたのは、見慣れた光景だった。高層ビル、アスファルトの道路、信号機、コンビニエンスストアの看板。21世紀初頭の、日本の都市。神崎が命を懸けて守ろうとしていた、日常そのものだった。
リニアを降り、セクターに足を踏み入れる。空気の匂い、アスファルトの照り返しの熱、雑踏の音。全てが完璧に再現されている。だが、神崎は強烈な違和感を覚えていた。
すれ違う人々は、誰も彼もが穏やかで、幸福そうな顔をしている。急いでいる者も、イライラしている者もいない。車のクラクションも、怒声も聞こえない。
それは、あまりに完璧で、清潔で、理想的な「日常」だった。まるで、巨大なセットの中にいるかのような、奇妙な空虚さ。
ふと、交差点の向こうで、一台の乗用車が子供のすぐそばを猛スピードで通り過ぎた。神崎は思わず「危ない!」と叫びそうになる。だが、子供も、その親も、周囲の誰も、全く気にした様子がない。
車は、子供に衝突する寸前で、不可視の力に止められたかのようにピタリと停止し、何事もなかったかのように再び走り去った。
リナが、不思議そうな顔の神崎に微笑みかける。
「ここでは、全ての乗り物はソラリスによって管制されています。事故は起こりません。病気も、怪我も、寿命以外の『死』も、ここには存在しないんです」
その言葉に、神崎は全身の血が凍るような感覚を覚えた。
危険がない。争いがない。死さえも、管理されている。
ここは、天国なのか。
それとも、全ての刺激と活力を奪われた、美しい牢獄なのか。
偽物の空の下、完璧に再現された故郷の街並みの中で、神崎は自分の存在が急速に色褪せていくような、途方もない孤独感に包まれていた。




