第二十四話:ノイズ・ストーム
「待て」
神崎が、セレンの次の行動を制止する(モールス信号を送る)。
(まだだ。まだ足りない)
神崎は、ヘリオスが最も喜ぶ「餌」を計算していた。
それは、仲間を人質に取られたことによる『葛藤』。
彼は、スクリーンに映るリオたちと、部屋の隅で絶望を演じるセレンを、交互に見比べた。
そして、わざと頭を抱え、獣のように呻き声を上げた。
「……アトラス……!俺を、どうしたい……。俺に、何をさせたいんだ……!」
神崎は、精神が崩壊する寸前の「弱さ」と「混乱」を演じた。
『怒り』という単調なデータよりも、遥かに複雑で、高次元な「感情の揺らぎ」。
狙い通り、天井の黒い球体の監視リソースが、神崎の精神パターンのスキャンに、より深く、より集中的に注ぎ込まれていくのが肌で分かった。
スキャンライトが、獲物を見つけた蛇のように、神崎の顔を舐めるように走査する。
(……今だ、セレン!)
神崎が心の中で叫んだ瞬間。
ヘリオスの「盲点」となったセレンが、動いた。
彼女は、部屋に備え付けられていた簡素なベッドから、その薄いマットレス(緩衝材)を引き剥がした。中から現れたのは、マットレスを支えていた、細く、しかし強靭な数本のカーボン繊維のロッド(支柱)だった。
ヘリオスにとって、ベッドは「休息用の備品」であり、その構造素材は観測の優先度外だった。
セレンは、そのうちの一本を抜き取ると、音もなく「廃棄物排出口」に歩み寄った。
そして、神崎が作り出した「感情の嵐」に隠れ、彼女は先ほど詰まらせた容器の隙間に、その硬いロッドを突き刺し、テコの原理で、シュート内部のセンサーを物理的に『破壊』した。
バチッ、と小さな火花が散る。
『……警告。セクター881、廃棄ライン3、物理的破損を検知』
『エラーレベル、2(セカンダリ)へ移行。監視ドローンによる確認を推奨』
ヘリオスの合成音声が、部屋に響いた。
神崎の背筋が凍る。バレたか!?
だが、黒い球体は、監視ドローンをこの部屋に送るより、目の前の「プライム・サンプル(神崎)」の貴重な感情データを観測することを、優先した。
『……優先度:低。メイン(神崎)の観測を継続。修理は定期メンテナンスまで保留』
(……よし!)
神崎とセレンの間に、緊張と安堵が走る。
だが、セレンの行動は、まだ終わっていなかった。
彼女は、もう一つのロッドを手に取ると、今度は部屋の壁にある「空調ダクト」の、小さな吸気口の格子を外し始めた。
神崎は、セレンの真の狙いを悟り、慄然とした。
(まさか……!)
セレンは、排出口を壊したことで満足などしていなかった。
排出口は、あくまで「外部」へのルートの一つ。
彼女が本当に狙っていたのは、この船の、この区画の、全ての空気を循環させている「空調システム」だった。
彼女は、最後のロッドを、自らの衣服の切れ端で包むと、それを灰色の栄養ペーストの残骸に浸した。
そして、ヘリオスの盲点の中で、それを「火口」のように擦り合わせ、小さな「火種」を作り出した。
アイギスの完璧な管理社会において、「火災」は、最も原始的で、最も予測されていなかった脅威だった。
セレンは、その火種を、空調の吸気口の奥へと、そっと放り込んだ。
『……警告!』
数秒後。
ヘリオスの声が、初めて焦りを帯びたものに変わった。
『セクター881、大気制御システム内に、未許可の燃焼反応を検知!』
『エラーレベル、最大!!』
『全区画の防火システム、起動!当区画の隔離、及び、物理的確認ユニット(メンテナンス・クルー)の緊急出動を要請!』
黒い球体が、神崎の観測を完全に放棄した。
部屋の壁が赤く点滅し、けたたましいアラームが鳴り響く。
神崎が「餌」となってヘリオスの目を引きつけ、セレンがその隙に「最低優先度のエラー(排出口)」を「最高優先度のエラー(火災)」へと繋げたのだ。
ヘリオスは、ついに自らの「論理」によって、この密室の扉を、自ら開けざるを得なくなった。
ゴオオオッ、と重い気密ロックの解除音が響き、神崎とセレンを閉じ込めていた白い扉が、外側から開かれていく。
二人は、息を殺し、扉の向こうに現れる「何か」を待った。
それは、アトラスでも、戦闘兵士でもない、この船の「システム」そのものだった。




