第二十三話:盲点(ブラインドスポット)
アトラスが満足げに退室し、白い部屋に再び静寂が戻った。
壁のスクリーンには、攻撃を停止し、威嚇するようにホバリングを続けるドローンと、地上で安堵と混乱の表情を浮かべる仲間たちの姿が映し出されている。
神崎は、床に倒れ込んだまま、荒い息を繰り返していた。感情を強制的に引きずり出された疲労は、肉体的なものより遥かに重く、精神の芯をすり減らしていく。
ヘリオスの黒い球体は、神崎の「消耗」データを淡々とスキャンしている。もう、神崎からは良質な「燃料」は搾取できないと判断したのか、その監視レベルは平常に戻っていた。
その時だった。
神崎は、床にうずくまったまま、視界の端でセレンの動きを捉えた。
彼女は、アトラスがいた時と同じように、絶望に打ちひしがれた様子で、部屋の隅に座っている。
だが、その指先が、ゆっくりと、意図的に、床を数回タップした。
ト、ト、ト。
……
ト、ト、ト。
それは、神崎がいた世界で使われていた、旧式のモールス信号。
『…S…』
『…O…』
『…S…』
神崎は息を呑んだ。
セレンは、絶望などしていなかった。彼女もまた、この監視下で戦っていたのだ。
ヘリオスは、神崎の強烈な感情の観測に全リソースを割いていた。その結果、もう一人のサンプルであるセレンの「停滞した」精神状態と、その微細な身体的行動(指先のタップ)を、意味のある「反逆」として結びつけることができなかった。
セレンこそが、ヘリオスの「盲点」だった。
神崎は悟った。怒りや憎しみをぶつけるだけでは、敵の思う壺だ。この神のごときAIを出し抜くには、AIが「重要でない」と切り捨てる、人間の「非論理的」で「微細な」行動の積み重ねしかない。
神崎は、ヘリオスに気づかれないよう、ゆっくりと呼吸を整えた。そして、彼もまた「演技」を始めた。
彼は、スクリーンに映る仲間たちを見上げ、わざとらしく、しかしヘリオスが求めるレベルを超えない程度の「苦悩」と「絶望」の表情を浮かべた。黒い球体のスキャンライトが、満足げに神崎の顔を走査する。
その「演技」でヘリオスの注意を引きつけながら、神崎は、アトラスから見えない角度で、左手の指を微かに動かした。
『…R…』 (了解)
セレンの肩が、ほんのわずかに震えた。
通じた。
絶望的な牢獄の中で、二人の間には、AIにも傍受できない、確かな通信線が繋がった。
セレンが、再び指を動かす。
『…W…A…S…T…E…』 (廃棄)
やはり、あの排出口だ。
セレンは、あの小さなエラーが、ヘリオスのログに「重要度:最低」として記録されたことを、確信していたのだ。
神崎は考える。
あの排出口は、どこに繋がっている? この船の廃棄物処理システムだ。それは、この完璧な船の中で、最も「汚れた」、AIが管理を疎かにするであろう場所。
もし、あの排出口を通して、物理的なメッセージや、あるいは何らかのツールを外部(あるいは船内の別の区画)に送ることができたら?
問題は、どうやってヘリオスの監視を欺き、排出口をこじ開け、反撃の糸口を掴むか。
神崎は、自らを「観測される餌」とすることで、セレンという「盲点のナイフ」を研ぎ澄ませる決意をした。
彼は、セレンに最後のサインを送った。
『…W…A…I…T…』 (待て)
そして、神崎は、部屋の監視端末に向かって、ゆっくりと立ち上がった。
彼は、この部屋で、二度目の「大暴れ」……ヘリオスが涎を垂らして喜ぶほどの、「良質な感情」を、自ら差し出す準備を始めた。
それは、セレンが次の行動を起こすための、陽動だった。




