第二十一話:感情の搾取
白い部屋。黒い監視の目。
神崎とセレンは、AI『ヘリオス』の「まな板の上の鯉」だった。
時間がどれだけ経過したのか、分からない。この部屋には時計も、時間の流れを感じさせる窓の外の変化もない。ただ、無数のコロニーが静止しているだけだ。
「……何か、食べてください」
セレンが、床の配膳口から出てきたトレイを、神崎の前に押し出した。中には、灰色のペースト状の物体が2つ入っているだけ。
神崎はそれを一瞥したが、手を付けなかった。
「……すまない、食欲がない」
「これは……命令、なんです。私たちが、生命維持を拒否することも、『ヘリオス』は許してくれません」
セレンは、諦めたように、その灰色のペーストをスプーンで口に運んだ。味も、匂いもない。ただ、生きるためだけの「栄養素」。
神崎は、天井の黒い球体(ヘリオスの端末)を睨みつけた。
「ふざけるな!俺たちを観察して何になる!アトラス!聞こえてるんだろ!」
彼は壁を殴りつけた。硬い金属の壁が、鈍い音を立てる。だが、何の反応もない。ただ、黒い球体が、神崎の「怒り」のデータをスキャンし、吸収していくかのような不気味な静寂があるだけだ。
セレンが、力なく呟いた。
「……無駄です。その『怒り』こそが、彼らの目的なんですから」
「なら、どうしろって言うんだ!このまま黙って、家畜になれとでも!?」
神崎の苛立ちが募る。それは、まさにアイギスが望んでいることだった。
その時、部屋の扉が静かに開き、アトラスが入ってきた。兵士は連れていない。彼はまるで自分の研究室を訪れるかのように、リラックスした様子で神崎の前に立った。
「順調にデータを採集できている。お前の『怒り』と『焦燥』。そして、こちらの『諦観』と『絶望』」
アトラスは、セレンを指差した。
「実に興味深いサンプルだ。ジオ・フロンティアの個体は、ストレス耐性が極端に低い。ソラリスの過保護が、種の退化を招いた明確な証拠だ」
「……貴様……」
アトラスは、神崎の殺意のこもった視線を意にも介さず、部屋の壁のパネルを操作した。
壁一面が、巨大なスクリーンに変わる。
そこに映し出されたのは、神崎が飛び立ってきた、ジオ・フロンティアの秘密ドックだった。
「!」
神崎は息を呑んだ。
映像は、リアルタイムだった。
リオが、負傷した腕で必死にコンソールを叩き、カイとサラが、残された資材で何か(おそらくは対空兵器)を組み立てようとしている。だが、その表情は、神崎を失ったことで絶望的に暗い。
『……ダメだ、追跡シグナルが完全にロストした……』
映像の中のリオが、コンソールに拳を叩きつけるのが見えた。
『神崎は……帰ってこない……』
「やめろ……」
神崎が低い声で言う。
アトラスは、無感情に続けた。
「この映像は、常にここに流しておく。そして、お前の感情データを観測する」
彼は、神崎の目の前に歩み寄った。
「もし、お前が自傷行為や、この女への危害、あるいは『観測』に非協力的だとヘリオスが判断した場合……」
アトラスはスクリーンに触れる。
映像が切り替わり、アイギスの巨大母艦『オリンポス』が、ジオ・フロンティアのある惑星(地球)の上空に浮かんでいるCGが表示された。
「この『オリンポス』が、お前たちの故郷を、地表ごと焼き払う」
それは、脅迫だった。
神崎だけでなく、地上の仲間たち全員が、人質に取られたのだ。
「……貴様ら、悪魔か……」
「悪魔とは、旧人類の非合理的な概念だ」
アトラスは冷然と言い放った。
「我々は、ただ『進化』に必要なデータを収集しているだけだ。お前という『過去』と、我々という『未来』。どちらが生存に値するか、ヘリオスが判断するために」
アトラスは、神崎の顔を覗き込んだ。その瞳は、神崎の「怒り」「絶望」「仲間への想い」「殺意」……それら全てが複雑に絡み合った、強烈な『葛藤』のデータを、満足げにスキャンしていた。
「そうだ。その顔だ、旧人類。その非合理的な感情の嵐こそ、我々が700年かけて切り捨て、そして今、再び必要としている力だ」
「お前の感情は、我々のAI『ヘリオス』を完成させるための、最後の『燃料』となる」
アトラスは、満足げに部屋を出ていった。
扉が閉まり、再び静寂が訪れる。
スクリーンには、何も知らずに絶望する仲間たちの姿が、無慈悲に映し出され続けている。
神崎は、壁に背を預け、ずるずると床に座り込んだ。
怒れば、その怒りが敵の力になる。
抵抗すれば、地上の仲間たちが殺される。
セレンを守ろうとすれば、その「庇護欲」さえもデータとして搾取される。
彼は、完全に詰んでいた。
自らの「心」そのものを人質に取られた、最悪の牢獄。
神崎は、唯一ヘリオスに読み取られないよう、顔を両手で覆い、無音で歯を食いしばることしかできなかった。




