第二話:境界線
目の前で繰り広げられる光景は、数億年という時の流れを飛び越えた、神の悪戯か悪魔の所業か。神崎は、乾いた唇を舐めた。頬を伝う汗が、顎の先からぽたりと地面に落ちる。
悪夢ではない。これは、紛れもない現実だ。
パイロットとして幾度となく潜り抜けてきた極限状況が、彼の精神を無理やり現実に引き戻す。パニックは死に直結する。思考を停止させることは、自ら捕食者の餌食になると宣言するようなものだ。
「……生き残る」
誰に言うでもなく、呟く。それが、今の彼にできる唯一の目標設定だった。
まずは、この開けた水辺から離れる必要がある。ここは格好の給水ポイントであると同時に、大型の肉食竜にとっては狩場そのものだろう。遠くに見える、わずかに小高くなった丘を目指すことに決めた。少しでも周囲を見渡せる場所の方がいい。
再び鬱蒼とした森の中へ足を踏み入れる。P230JPのセーフティを外し、いつでも撃てるように右手に握りしめた。9mmパラベラム弾が、T-REXの牙に通用するとは到底思えない。
だが、威嚇にはなるかもしれないし、何より「武器を持っている」という事実が、かろうじて心の平衡を保ってくれていた。
歩きながら、周囲のあらゆるものに意識を集中させる。木々のざわめき、名も知らぬ虫の羽音、そして、自らの荒い呼吸。不意に、茂みがガサガサと音を立てた。神崎は即座に身構え、銃口を向ける。
茂みから飛び出してきたのは、鶏ほどの大きさの、二足歩行する小さな恐竜だった。大きな瞳でこちらをちらりと見ると、興味を失ったかのように素早く目の前を横切り、再び森の奥へと消えていく。コンプソグナトゥス、だろうか。直接的な脅威ではないが、ここは食物連鎖の最下層ですら、自分とは異質な生物が占めているのだと、改めて思い知らされた。
どれくらい歩いただろうか。太陽の位置は木々に遮られて分からない。体感では一時間ほどか。疲労と空腹が、じわじわと体力を奪っていく。丘の斜面に取り付き、少しでも視界の良い場所へ、と一心に登り続けた。
そして、神崎はそれを見つけた。
「……なんだ、あれは」
木々の隙間から見えたのは、崖……いや、壁だ。
それは森を巨大な定規で切り取ったかのように、完璧な直線を描いてそびえ立っていた。
高さは目測で50メートル以上。表面は不気味なほど滑らかで、黒曜石にも似た鈍い光を放っている。所々に蔦が絡みつき、周囲の景観に溶け込もうとしてはいるが、その異様さは隠しきれていなかった。自然が作り出した造形物とは到底思えない。
人工物だ。
その確信が、心臓の鼓動を速める。
人がいる。この時代、あるいはこの世界に、文明が存在する証だ。
神崎は吸い寄せられるように、その壁に向かって歩みを進めた。近づくにつれ、その巨大さと異様さが際立つ。見上げる壁には、継ぎ目も、窓も、扉らしきものも一切見当たらない。
まるで一枚岩から削り出されたかのような、完璧な平面がどこまでも続いている。
壁に沿って、どれくらい歩いただろうか。希望が再び絶望に変わりかけた、その時。
壁の一部が、わずかに、本当にわずかに窪んでいる場所を見つけた。周囲の壁面とは明らかに質感が違う。まるで、巨大な扉が完璧な技術で隠されているかのように。
「……ここか?」
手を伸ばし、その窪みに触れる。ひんやりとした、金属とも石ともつかない感触が掌に伝わった。押しても引いても、びくともしない。必死に継ぎ目やボタンのようなものを探すが、どこにも見当たらない。
疲労がピークに達し、神崎は壁に手をついたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
「……ここまで、なのか……」
恐竜が闊歩する世界で、ようやく見つけた文明の痕跡。しかし、それは彼を拒絶するかのように、ただ沈黙している。
その時だった。
彼が手をついていたまさにその場所から、淡い青白い光のラインが走り始めた。まるで回路基板をなぞるように、光は複雑な幾何学模様を描き出し、神崎の掌を中心に広がっていく。
「なっ……!?」
驚いて手を離そうとするが、なぜか身体が動かない。光は彼の掌をスキャンするかのように明滅を繰り返した。
それはまるで、未知のテクノロジーによる生体認証システムのようだった。
やがて、重低音ともいえない、ほとんど無音の作動音と共に、目の前の壁が静かに、そして滑らかに内側へとスライドしていく。
光が溢れ出した。
太陽光ではない。どこまでも均質で、目に優しい、人工の光。そして、流れ込んできた空気は、湿気と腐葉土の匂いがする外気とは全く違う、どこか清浄で、わずかにオゾンの匂いがする、管理された空気だった。
扉の向こうには、緩やかに下へと続く、真っ白な通路が伸びていた。
背後には、死と隣り合わせの原始の世界。
目の前には、未知だが、明らかに高度な文明が存在する世界。
選択の余地はなかった。神崎は最後の力を振り絞って立ち上がると、覚悟を決め、その光の中へと一歩を踏み出した。
彼が通路に完全に足を踏み入れた瞬間、背後の扉が同じように静かに閉じていく。外のジャングルの光景が一直線の闇に閉ざされ、完全な静寂が訪れた。
次の瞬間、どこからともなく、女性のものとも男性のものともつかない、合成音声のような澄んだ声が空間に響き渡った。
『――生体反応を検知。訪問者をスキャンします……完了。バイタル、安定。DNAサンプル照合……データベースに不一致。あなたは“未登録の旧人類”と識別されました』
神崎は、そのアナウンスの意味を理解できないまま、ただ呆然と白い通路の先に広がる光景を見つめていた。
通路の先には、信じられないほどの巨大な地下空間が広がり、そこには、空があった。
青く、どこまでも広がる、偽物の空が。




