第十八話:獅子の巣
漆黒の宇宙空間。
神崎がいた「空」は、もはや足元を覆う蒼い球体となっていた。息を呑むほどの美しさ。だが、感傷に浸る時間は一瞬たりともない。
『神崎!聞こえるか!』
ヘッドセットから、ノイズ混じりのリオの声が響く。
『シグナルの残滓が、急速に減衰してる!座標ロックが消えるぞ!あと60秒だ!』
目の前で、空間の歪みの残滓が、風前の灯火のように明滅している。
神崎は、現実世界では初めて、クロノスの「感情OS」を起動させた。
「……分かってる」
彼は操縦桿を握りしめ、目を閉じた。
(思い出せ)
(アトラスの、あの冷たい蒼い瞳)
(セレンを奪われた、あの無力感)
(リオが腕を焼かれた、あの痛み)
(全てを奪われた、あの怒りを――!)
『アイギス!!』
神崎の憎悪と意志が、物理的な奔流となってシステムに流れ込む。
『感情パターン、ロックオン。跳躍座標、固定。』
コックピット内の計器が、緑色の光で満たされた。
『クロノス・ダイバー・ワン、これより、未知座標へ跳躍する!』
神崎はスロットルではなく、自らの精神のレバーを、限界まで叩き込んだ。
次の瞬間、世界が反転した。
視界が、七色の光の奔流に塗りつぶされる。肉体が、まるで粘土のように引き伸ばされ、原子レベルに分解されていくような、筆舌に尽くしがたい激痛と圧迫感。
F-15Jで経験した最大9Gの負荷など、子供の遊びだった。これは、物理的なGではない。存在そのものが別の次元へと捻じ曲げられる「時空のG」だ。
「ぐ……おぉぉぉぉッ!!」
シミュレーションで経験した負荷とは、比較にすらならない。
(耐えろ……!ここで意識を失えば、俺は永遠に時空の狭間を彷徨うことになる……!)
彼は、セレンの顔だけを、その一点だけを、暗闇の中で掴み続けた。
どれほどの時間が経ったのか。一瞬か、永遠か。
突如、全ての負荷が消え失せ、機体は凄まじい衝撃と共に、通常の空間へと「吐き出された」。
『警告!警告!機体制御不能!』
『熱暴走!』
『船体各所に異常ダメージ!』
クロノスは、コマのようにきりもみ回転しながら、未知の空間を漂流していた。
「……立て直せ、俺の翼!」
神崎は、失神寸前の意識を叩き起こし、必死に物理的な操縦桿を握り、逆噴射スラスターを焚いた。寄せ集めの機体が、悲鳴のようなきしみ音を上げる。
数分間にわたる死闘の末、クロノOSは、ようやくその回転を止め、静止した。
神崎は、荒い息を繰り返しながら、キャノピーの外に広がる光景に、言葉を失った。
そこは、地球の軌道上ではなかった。
蒼い星はない。
代わりに彼の目の前に広がっていたのは、悪夢のような光景だった。
無数の、巨大な円筒形のスペースコロニー。
それらを連結するように張り巡らされた、エネルギーライン。
そして、それらを守護するように浮かぶ、数百、いや数千はあろうかという、銀色に輝くアイギスの艦隊。
ジオ・フロンティアのような「地下都市」ではない。
ここは、人類が宇宙に築き上げた、巨大な軍事要塞都市。
星系そのものを支配する、圧倒的な文明の巣。
「……ここが、アイギス・フロンティア……」
絶望的なまでの、物量と技術力の差。
その時だった。
神崎が、この世界を観測した、そのコンマ1秒後。
コックピット内に、これまで聞いたことのない、甲高い警告音が鳴り響いた。
『警告。未登録の時空シグナルを感知』
『アイギス防衛網、レベル・アルファ発動』
『目標、クロノス・ダイバー。……捕獲を開始する』
神崎の目の前の空間に、突如として数十機のアイギスの銀色の機体がワープアウトしてきた。
彼らは、クロノスを完璧な包囲網の中に閉じ込める。
逃げ場は、ない。
「……獅子の巣の、ど真ん中か」
神崎は、自嘲的な笑みを浮かべた。
だが、その瞳に宿る闘志の火は、一瞬たりとも消えてはいなかった。
「上等だ。派手に歓迎してくれよ、未来人ども……!」
彼は操縦桿を握り直し、怒りの翼のエンジンを、再び点火した。
故郷(地球)から、何万光年離れているかも分からない宙域で。
一人の旧人類と、未来の超文明との、孤独な戦いが始まろうとしていた。




