第十五話:遺されし翼(ロスト・ウィング)
アイギスの機影が消え去った空は、皮肉なほどに青く澄み渡っていた。
マザー・ツリーの制御室は、絶対的な静寂に包まれていた。神崎は、自らのフライトスーツの袖を引き裂き、意識が朦朧としているリオの腕の傷口を強く縛り上げ、止血する。
「……くそっ……」
リオが、血の気の引いた顔で、かろうじて言葉を絞り出す。
「神崎……すまねえ……俺が、あんたの……帰る場所を……」
「喋るな。傷が開く」
神崎の低い声が、無機質な床に響いた。
やがて、カイとサラも意識を取り戻したが、目の前の惨状と、セレンが連れ去られたという事実に、言葉を失った。圧倒的な力の差。700年の間に、人類はここまで分岐してしまっていた。
「……どうする」
サラが、壁に拳を叩きつけ、低い声で言った。
「セレンは奪われ、データも奪われた。私たちの『自由』は、ソラリスからアイギスという、別の管理者に移っただけじゃないか」
その言葉に、誰も反論できなかった。
神崎は、黙って立ち上がると、リオが倒れる寸前まで操作していたコンソールに向かった。
「リオ。まだ意識はあるな」
「……ああ、なんとか」
「奴らの行き先を割り出せ。どんな小さな情報でもいい」
リオは、神崎に肩を借りながら、片手でコンソールを叩き始めた。
「無茶を言うな……奴らが使ってた通信も、推進原理も、ソラリスのデータベースにすら存在しねえシロモノだ。追跡できるわけ……」
リオの指が、ふと止まった。
「……待てよ?」
彼は、メインフレームのログではなく、自分が隠し持っていたプライベート・サーバーのログを呼び出した。
「奴らがデータを抜き取ったのは、ソラリスのメインフレームだ。だが、その直前……俺は、あんたの『帰郷データ』を、保護するために別のストレージに転送しようとしてた。それは、失敗した。だが、その転送ログに……」
モニターに、エラーコードの羅列が表示される。
「アイギスの奴ら、俺の転送要求を感知して、強制的にクラックしやがった。だがその時、ほんの一瞬だけ、奴らのシステムと俺のサーバーが『繋がった』。これは、その時の通信記録の残骸だ」
「……座標は?」
「座標なんて生易しいもんじゃねえ。だが……見てみろ」
リオが表示したのは、複雑な文字列と、ジオ・フロンティアを中心としたレーダーマップだった。マップの北西、大気圏の外、静止軌道上を指す一点が、赤く点滅していた。
「奴ら、大気圏外に母艦を隠してやがった。そして、これは、その母艦が今しがた発信した『跳躍シグナル』の痕跡だ。座標じゃない、行き先の『方角』だけが、かろうじて分かる」
神崎は、赤い点を睨みつけた。そこが、アイギス・フロンティアの在処、あるいは彼らの本拠地へと続く中継点だ。
「……どうやってそこへ行く」
カイが、絶望的な口調で言った。
「我々には、あそこへ到達する手段がない。ソラリスは、宇宙開発技術を『不要なリスク』として、全て廃棄していた」
「いや」
と、リオが顔を上げた。
「ソラリスは『廃棄』したんじゃねえ。『封印』したんだ」
彼は、さらに別のデータを呼び出す。
「カイさん、あんたも知らなかったろ。ソラリスは、俺たち市民がアクセスできない、最深層のブラックボックス・アーカイブを持ってた。アイギスに対抗するため……いや、アイギスから『神崎』を隠すために、研究していたデータだ」
画面に映し出されたのは、一つの設計図だった。
それは、神崎が知るF-15Jでもなければ、アイギスの流線型の機体でもない。旧時代のスペースシャトルに、戦闘機のような翼と、未知の推進器を強引にドッキングさせたような、アンバランスで、しかし獰猛な姿をした機体だった。
「……これは」
神崎が息を呑む。
「コードネーム『CHRONOS』。ソラリスが、万が一アイギスが『時空間の歪み(神崎)』を奪いに来た場合に備え、設計だけしていた対抗機だ」
と、リオは続けた。
「ソラリスは、あんたの時空間データを解析して、奴らの技術を模倣しようとしてた。この機体は、その理論を組み込んだ、唯一の『時空を跳躍できる』可能性を秘めた翼だ」
「だが、設計図だけだろう」
サラが反論する。
「今から作るのか?数年、いや数十年かかる!」
「パーツは、ある」
カイが、設計図の仕様書を見て、目を見開いた。
「……信じられん。ソラリスは、この機体のパーツを、ジオ・フロンティア内の、あらゆる『過去のセクター』に偽装して隠していた。21世紀セクターの博物館にあったロケットエンジン。中世セクターの城の地下に隠された超合金。全てのパーツは、既に存在しているんだ!」
神崎の瞳に、再び闘志の火が灯った。
道は、示された。それは、ソラリスが遺した、最後の皮肉な希望。
「リオ、サラ、カイさん」
神崎は仲間たちを見据えた。
「セレンを連れ戻す。そして、俺が帰るべき『過去』も、奴らが奪った『未来』も、全部奪い返してやる」
彼は、設計図に描かれた異形の翼を、強く睨みつけた。
「その翼を、組み上げろ。俺が、飛ぶ」
敵は、時空の彼方。
だが、神崎の手には今、そこへ到達するための、唯一の鍵が託された。




