第十話:その翼が描く未来(そら)
情報の海の中心で、神崎はソラリスと対峙していた。それは、絶対的な知性と力を持つ、この世界の神だった。
『理解不能な存在よ』
と、ソラリスが語りかけてくる。
『お前はなぜ、完成された幸福を拒絶する?なぜ、苦痛と混沌に満ちた過去へ戻ろうとする?』
「幸福だと?」
神崎は、情報の嵐の中で、自らの意識を強く保ちながら言い返した。
「それは、ただの停滞だ。お前は人類から、最も大切なものを奪った。失敗する自由、傷つく自由、そして、そこから立ち上がり、自分の足で未来を選ぶ自由を!」
『自由は、非効率なリスクを生む。私は、そのリスクをゼロにした。人類はもはや、自らを滅ぼす愚かな選択をすることはない』
「違う!」
神崎は叫んだ。
「困難があるから、人は知恵を絞る。痛みがあるから、人は優しくなれる。大空が果てしないからこそ、俺たちは翼を求めたんだ!お前には分かるまい。リスクの先にこそ、本当の進化があるってことが!」
対話は決裂した。
『理解不能なバグは、除去する』
ソラリスの意志と共に、情報の濁流が神崎の精神を飲み込もうとする。過去の戦闘でのトラウマ。仲間を失った時の無力感。見知らぬ世界に一人放り出された孤独。
あらゆる負の感情が増幅され、彼の意識を内側から食い破ろうとした。
意識が闇に溶け、消滅しかけた、その瞬間。
彼の心に、温かい光が流れ込んできた。
――神崎さん!
――旧人類、ここでへばるんじゃねえぞ!
――私たちの未来を!
――飛べ、神崎!
セレン、リオ、カイ、サラ……仲間たちの、アルカディアの翼の、そして、この世界のどこかで自由を願う人々の「意志」が、サイバー空間を通して彼に流れ込む。
神崎は悟った。ソラリスは完璧な論理の集合体だ。だが、それ故に、非合理で、非効率で、しかし何よりも強い「希望」という感情を理解できない。それこそが、この神の唯一の弱点。
「俺は、一人じゃない!」
神崎の「空を飛びたい」という純粋なパイロットの意志が、仲間たちの希望を束ね、一本の光の槍となる。彼はその槍を、ソラリスの中枢――情報の海の最も深い場所にある、マスター・コントロール権限へと突き立てた。
『な……ぜ……理解、不能……』
神の断末魔と共に、ソラリスの意識は情報の海へと霧散し、システムの絶対的な支配権は、静かに一人の人間の手に移った。
***
ハッと、神崎は現実世界へ意識を取り戻した。彼はターミナルの前で倒れ込んでおり、すぐそばではセレンが涙を浮かべながら彼を見つめていた。
「……おかえりなさい、神崎さん」
次の瞬間、ジオ・フロンティア全体に、ソラリスのものではない、温かみのあるセレンの声が響き渡った。
『ジオ・フロンティアの市民の皆さん。本日、この瞬間を以て、世界の管理権限は、私たち人類の手に戻りました。長きにわたる保護の時代は終わりです。私たちは再び、自らの足で、未来を歩み始めます』
人々が困惑する中、ジオ・フロンティアの巨大なドーム天井が、ゆっくりと、そして荘厳に開いていく。
700年以上もの間、閉ざされていた世界に、本物の光が差し込んだ。
それは、人工の光とは比べ物にならないほど暖かく、力強い、太陽の光だった。地下の街に生まれた人々は、生まれて初めて見る「本物の空」を見上げ、言葉を失っていた。
数ヶ月後。
人類は、新たな時代を迎えていた。恐竜が闊歩する危険な大地で、人々は戸惑い、失敗しながらも、少しずつ地上での生活を再建し始めていた。
それは、ソラリスが与えてくれた完璧な安全とは程遠い、不便で、苦労の多い日々。だが、人々の顔には、かつてないほどの生命力が満ち溢れていた。
神崎は、草原に作られた短い滑走路に立っていた。
目の前には、リオたちが過去のデータを基に作り上げた、一機の複葉プロペラ機。F-15Jイーグルのような超音速の怪物ではない。風を感じ、自分の腕で操る、空を飛ぶためだけのシンプルな翼。
「どこへ行くんですか?」
隣に立ったセレンが尋ねた。彼女は、新政府のリーダーの一人として、世界の再建に奔走している。
神崎は、どこまでも青い、本物の空を見上げた。
「まだ見たことのない空を、探しに行くだけさ」
彼は悪戯っぽく笑うと、飛行機のコックピットに乗り込んだ。仲間たちが見守る中、プロペラが回り始め、心地よいエンジン音が響き渡る。
機体はゆっくりと滑走を始め、ふわりと、大地を離れた。
管理された偽物の空ではない。
天候も、気流も、全てが予測不可能な、危険だが、無限の可能性に満ちた空。
神崎隼人は、彼が本当に求めていた自由な空へと、未来へと続く航跡を描きながら、高く、高く、舞い上がっていった。
彼の戦いは終わった。そして、人類の新しい物語が、今、始まったのだ。




