第八話「小さな景色の中に」
ページの左隅に、ぽつんと円を描く。次に、その隣に細長い線を一本、ななめに引く。灯は鉛筆を手に、白いノートの上をすべるように動かしていた。
言葉にしようとすると止まってしまう。何を考えているか尋ねられても、どこから話せばいいのかわからない。だから、考えるより先に描く。手が勝手に進めば、それはきっと、まだ名づけられていない気持ちや風景たちなのだろう。
最初は落書きだった。それがいつの間にか、彼女の“日記”になっていった。
日記と言っても、「今日は何があった」「誰と話した」などと時系列を整理するものではない。ただ、断片的な形や線、色、矢印や点線、意味があるようでない言葉のかけら。それらをページに落とすだけ。
「ノートって、頭のなかを広げる場所なのかもね」
光里が以前ぽつりと言った言葉を思い出す。灯はそのとき、よくわからなかった。ただ、いまは少しだけわかる気がした。ノートは、整理するためではなく、混乱している状態のままでも置いておける場所。誰にも見られない、小さな安全地帯。
今日のページには、四角と三角を組み合わせたかたちが並んでいた。まるで風景のようで、でも風景ではない。中心からすこし外れた位置に、黒い点がひとつだけ置かれている。
「これ、なんだろうね……」
灯は自分に尋ねる。けれど答えは出ない。出ないままで、いい気もしていた。
いつも通る帰り道。植え込みの影から飛び出してきた猫が、灯の前でぴたりと止まり、数秒見つめてからまた走って行った。その一瞬に、時間の流れが凍ったように感じた。
灯は足を止めたまま、遠ざかっていく猫の背を見送る。
(ああ、これも、ノートに描けるかな)
「ただ起きたこと」としてスケッチすること。それは、感情に振り回されることとは少し違う。言葉にできないまま、でも無視もできない「なにか」に、仮のかたちを与えるような作業だった。
部屋に戻り、机に向かう。今日は黒いペンを使ってみることにした。線がくっきり残るのが、なぜか心地よい。丸や線を描いていると、無言で、静かに呼吸が整っていく。
小さな円の周囲に、いくつかの点を配置してみる。点と点を線でつなぐと、まるで星座のように見えた。そこに意味を与えようとはしない。ただ、目に見えるかたちで残すこと。
(自分の中にあるものは、消えていくばかりじゃない)
これまでは、「忘れること」が怖かった。でも最近は、「見えないまま」だったものが、実はずっとそこにあったことのほうが、ずっと不思議で、すこし愛おしいとさえ思えるようになってきた。
ノートの中にある風景は、まだ“現実”とはつながっていない。けれど、完全に切り離されてもいない。灯にとって、それは夢と現実の間にひらかれた、わずかな隙間のような場所だった。
ある日、光里がふと聞いた。
「灯って、ノートに何描いてるの?」
少し迷ったあと、灯は答えた。
「……わからないもの」
光里は笑わなかった。ただ「へえ」と言って、頷いた。
「じゃあ、見てもいい?」
「えっと……」
灯は数秒、ためらった。でも、数ページだけ開いて、静かに差し出した。光里はノートを受け取り、数秒間めくったあと、目を細めて言った。
「うん。すごく、やわらかい感じがする」
それがどういう意味なのかはわからなかったけれど、灯の中に、小さな安心のようなものが流れ込んできた。
(やわらかい。……それなら、きっと大丈夫)
この日以降、灯は以前よりも少しだけ、描く手を止めなくなった。
そして、ほんのすこしずつ、ノートの中で“中”の世界が広がっていくのを感じていた。誰にも伝わらなくても、自分だけの風景。混乱のままでも、そのままそこに置いておける景色。
たとえそれが現実とつながらなくても、“今ここにある”と、感じられるだけで充分だった。
───
ページの隅には、くしゃくしゃの木の枝が描かれている。そのとなりに、小さな石、横向きに寝転んだ人影、少しだけ歪んだ家の形。そして、上の方に、細い線で描かれた道――それらは何かの順序も意味もない、ただ並べられた断片だった。けれど灯にとっては、それらが混ざっていることが大事だった。
何がきっかけだったか、自分でもわからない。けれど、その日の朝、ふと手に取ったノートに、線を引いた。ノートはずっと白紙だったけれど、突然、形にしてみようという気になった。
考えても言葉にならないことはたくさんある。だけど、線にすれば、少しは軽くなる気がした。
ふと、夢の中で見た景色が浮かんだ。広くも狭くもない、灰色の草原のような場所。誰もいないのに、誰かがいるような気配がする。風が吹いていて、自分の身体がうっすら透けていた。
灯は、その風を線で描こうとした。うまくいかなくて、何度も描き直しては消した。けれど、やがてページの中央に、しゅるしゅると曲がった線が一本、定まった。見た人がそれを“風”だと感じるかどうかはわからない。でも、灯にとっては、間違いなく「風」だった。
次のページには、ことばを少しだけ添えた。
「さわれないものを、形にしておく。忘れないように。」
夕方、光里と会ったとき、灯はノートをかばんに入れたまま、なにも言わなかった。でも、いつものようにベンチに座って話しているとき、ふと話題が止まったとき、光里が訊いた。
「最近、何かしてる?」
灯は一瞬迷ったが、「ノートを描いてる」とだけ答えた。
「へえ。言葉じゃなくて?」
「うん、線とか、形とか。なんか……言葉にすると違う気がして」
光里はうなずいた。「わかる。なんかさ、言葉って、他人に合わせるときに使うものって感じあるよね」
灯はその言葉に少し驚いて、光里の横顔を見た。光里はいつも自然体で、言葉も行動も軽やかに感じられる。でも、そんな光里でも「違和感」を感じるのかと、思った。
「それで、自分のための線を描いてるんだ」
「うん。たぶん、いまのところはそれがいちばん近い感じ」
光里は少し笑って、「そっか。じゃあ、しばらくそれ、続けてみたらいいと思う」と言った。
灯はうなずいた。そしてそのとき、なぜかふと、「外につながらなくても、線があるだけで少し動けることもあるんだ」と思った。
その夜、帰ってから、灯はまたノートを開いた。
静かな部屋の中、紙の上に現れる線は、どこかで今日の会話を反射していた。風の線のとなりに、小さな家の窓を描いた。開いていて、そこから吹き込む風が、カーテンを揺らしているような――そんな絵。
灯の中で、言葉の代わりに、景色が増えていく。ページごとに、小さな光が灯る。
まだ「外」には出せない。けれど「中」にあるこの線たちは、間違いなく、自分のかたちをつくりはじめていた。