第七話「夢の中の片隅に」
薄暗い廊下を歩いていると、誰かの足音が遠くから聞こえてきた。灯は立ち止まり、振り返る。誰もいない。ただ、自分の足音が少し遅れて戻ってきているだけだった。
夢の中の世界では、風も、光も、音さえも、彼女にやさしく絡みついてくる。拒まないし、試さない。ただそこに在り、灯がどんな形でも溶け込めるようになっている。
でも現実は違った。ドアの開け方ひとつ、言葉のタイミングひとつ、すべてが試験のようで、「これでいいのか?」と問い続けるうちに、行動の糸がこんがらがっていく。
ベッドに横たわり、天井の模様を追いながら、灯は自分に尋ねた。
――私は、なにが怖いんだろう。
失敗?誤解?拒絶?それとも、自分という存在をうまく形にできないことそのもの?
夢では、形がなくても動けた。ただ「感じたまま」に従えばよかった。そこでは泣いてもいいし、笑ってもいい。誰にも咎められない。誰かが「なぜ?」と訊いてくることもない。説明はいらない。理由は後から空に漂ってくる。
光里のように、現実の中でも動ける人がいる。それは灯にとって、少しうらやましく、少しこわかった。
「光里ちゃん、どうしてそんなに話せるの?」
ある日の放課後、誰もいない教室の隅で灯は問いかけた。問いながら、声が震える。聞きたいのは、光里の「方法」ではなく、自分がこの先に進めるのかどうかという希望だった。
光里は窓の外を見ながら答えた。
「うーん……たぶん、最初から正しくなんてないと思ってるからかな。言葉って、間違えても、また探せばいいし」
「でも……怖くない?間違えるの」
「うん、ちょっとは。でも、黙ってると、どこまでが自分なのか、わかんなくなるんだよね」
灯はその言葉を反芻した。「黙っていると、自分がわからなくなる」。
自分が言葉にしなかったもの、目をそらしてきた思考や感情は、どこに行ってしまったのだろう。夢の中では確かに在るのに、目覚めると、手のひらからこぼれ落ちるように、記憶の隙間に消えていく。
その夜、灯は久しぶりに夢を見なかった。目覚めたとき、胸の奥に小さな欠片のような空洞ができていた。夢を見なかったことが、少し怖かった。そこは、彼女の逃げ場所であり、仮の住処であり、もうひとつの「本当の自分」だったから。
朝食のパンを焼く音、遠くの踏切のベル、部屋の隅に落ちている紙くず。どれもが現実の「重さ」として灯にのしかかってくる。ひとつひとつが、彼女に「さあ、今日もやるんだよ」と無言で告げてくるようだった。
でも今日は、なんとなく、違った。
パンを少し焦がしながらも、自分でトースターを使い、コップに牛乳を注ぎ、机に座って食べる。ぎこちないけれど、身体がほんのわずかに現実と接続していた。
「うまくいかなくても、また探せばいい」
光里の言葉が頭の中で響いた。夢の中にしかなかった自由が、少しだけ、現実の空気にも混ざってきたような気がした。
朝の光がカーテン越しに差し込む。静かな部屋の中で、灯は少しだけ深呼吸をした。
「たぶん、私は……少しずつでも、こっちの世界にも歩いていけるかもしれない」
声にはならなかったが、心のどこかでそう呟いた。
夢の片隅に置いてきた、柔らかい光が、現実の机の上にも、ほんのり映っていた。