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第六話「足あとをなぞるように」

目覚めたとき、カーテンの隙間から白い光が差していた。灯は布団の中で、光と影がゆっくり形を変えていくのを眺める。窓の外からは、誰かの自転車のブレーキ音と、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。外の時間は動いている。けれど、自分の中にはまだ靄がかかっている。


昨日、光里に言われた言葉が頭に残っていた。


「動く前に意味を考えすぎると、止まるよね」


そんな簡単なことが、灯にはなぜか難しい。「なぜ今、顔を洗うのか」「なぜ学校に行くのか」「なぜ何かを食べるのか」そういったことを一つひとつ説明しようとするうちに、動作は霧の中に沈んでいく。たとえば手足をバラバラに組み立てるロボットみたいに。自分の身体が、自分の意志から少し離れた場所にあるような感覚がいつもある。


それでも、灯は立ち上がった。足を一歩前に出して、次の足をそっと置く。ベッドから洗面所へ。少し重たい体を支えるように、壁に手を当てながら歩く。


洗面所の鏡に映った自分の顔は、どこか知らない人のようだった。目の奥にあるものを見ようとすると、視線がぼやける。感情がまだ眠っているのかもしれない。そう思って、水をすくい、頬にあてた。冷たさだけが確かな感覚だった。


その日の午後、灯は光里と公園で会った。小さな芝生広場の隅にあるベンチ。二人は並んで座っていた。秋の気配が混じった風が、木々をゆらしている。光里は手帳を開き、何かを書いていた。


「なにしてるの?」灯が聞くと、光里は少しだけ手を止めて、答えた。


「記録、みたいなもの。今日見た景色とか、感じたこととか。あと、思いついた言葉とかね」


灯はそれを覗き込もうとはしなかった。ただ、「へえ」と小さく言っただけ。


光里は続ける。「忘れちゃうんだよね。感じたこと。だから、せめて書いておくの。後で読んで、たどり直せるように」


「たどり直す……?」


「うん。足あとみたいにさ。歩いてきた道を忘れちゃうと、自分がどこにいるのかもわからなくなる気がして」


灯はその言葉を、黙って受け取った。記録すること、足あとを残すこと。それは灯にとっては、難しく思える行為だった。言葉にしようとするたびに、自分の中のものが逃げていく気がするからだ。けれど、光里の言葉には不思議と安心感があった。「わかる」とは言えなかったけれど、「否定しないでいられる」と思った。


帰り道、灯はふと思い出した。小学生のころ、家族で行った山道のこと。歩き疲れて動けなくなった自分の手を、母がそっと引いてくれた。そのとき、母の足あとをなぞるように歩いたこと。苔むした石の上、曲がりくねった道、木漏れ日の下。全部が不安だったけれど、母の背中だけが信じられた。


――あれは、誰かの足あとがあったから、歩けたんだ。


その記憶に気づいたとき、灯の足が止まった。静かな夕暮れの中、風の音だけが周囲を撫でている。誰もいない住宅街の細い路地。自分の影が長く伸びていた。


ふと、ポケットの中のスマートフォンを取り出して、灯はメモアプリを開いた。そして、何かを書こうとした。うまく言葉にできない気持ちを、できるだけ形に近づけようとして。


「今日は、風がやさしかった。光里の声が、静かな水みたいだった」


その一文を書き終えて、画面を閉じた。別に誰に見せるわけでもない。けれど、今の自分にとってはそれが「足あと」だった。


夜、灯は夢を見た。


草原の中を誰かと並んで歩いていた。目の前には、はっきりとした道が見える。風に揺れる草の間を抜けて、まっすぐに続く道。後ろを振り返ると、自分の足あとが二つ並んでいる。その隣にも、もう一つの足あとがあった。


誰かと一緒に歩いた証。


目覚めたとき、灯は少しだけ笑っていた。ほんのかすかに、けれど確かに、胸の奥が動いた気がした。


次の日、光里に言った。


「……足あと、私もつけてみようかな」


光里は笑った。「うん。急がなくていいよ。自分の歩幅で、ね」


灯はうなずいた。そのとき初めて、現実の道にも、夢の中の草原にも、共通する静かなリズムがあるように思えた。足あとは、目に見えないけれど、たしかに存在する。


自分の道は、自分のなかにだけある。それをなぞるように、今日も少しずつ歩いてみる。

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