第五話「笑い声と壁」
静かな平日の午後、澪は駅前で光里と待ち合わせをしていた。
いつものように人と距離を取ることに慣れていた澪にとって、誰かと駅で待ち合わせるのは、それだけで珍しい出来事だった。
「ごめん、お待たせ」
そう言って、光里が現れたのは約束の時間ぴったりだった。
肩にかかるショートコートと、白いマフラー。人混みの中でもどこか目を引くような柔らかな存在感。
澪は小さく首を振って「ううん」と返す。
二人が向かったのは、光里が以前から「行きたい」と言っていた小さな喫茶店だった。
駅から歩いて十数分のところ、住宅街のはずれにぽつんとある店。煉瓦の壁に囲まれた外観が、まるで昔からそこにあったような風情を醸していた。
ドアを開けた瞬間、ベルの音が小さく鳴り、木の匂いと温かい空気が迎えてくれた。
店内には数組の客。女性二人組の笑い声、カウンターで新聞を読んでいる老夫婦、奥の方では大学生らしきグループが話に花を咲かせている。
澪はそのざわめきに、少しだけ肩をすくめた。
人の声、音、光。そういったものがいくつも重なると、心が揺れすぎて、自分がどこにいるのかわからなくなることがある。
光里は、そんな澪の気配を感じたのか、「奥の静かな席、空いてるみたい」と声をかけてくれた。
角の窓際、陽が差し込む場所。壁が背後にあって、視界が半分閉じているような安心感があった。
二人は対面に座り、それぞれにブレンドコーヒーとシフォンケーキを頼んだ。
「こういうお店、あんまり来ない?」
光里が尋ねると、澪は「うん」と頷いた。
「人が多いところ、ちょっと苦手。音が重なると、頭の中で渦になる感じ」
「うん、なんかわかる気がする。私も時々、笑い声に混ざれないときあるよ」
澪は、その言葉を不思議に感じた。
光里はいつも自然に笑っていて、誰とでも話せる人だと思っていたから。
「でも……」光里は続けた。「混ざれないことと、そこにいないことは別なんだって、最近思うようになって」
澪は黙って、コーヒーに口をつける。少し酸味のある香りが舌の上に残った。
「前にさ、澪に“好きなことって何?”って聞いたこと、覚えてる?」
澪は、ゆっくりと頷いた。あの日の、午後の陽の角度を思い出す。
「そのあと、なんであんなこと聞いたのかなって自分でも考えたの。たぶん、私、澪に何か“見えてるもの”があるんじゃないかって思ったんだと思う」
「見えてるもの……?」
「うん。言葉にならなくても、何かを持ってる人だなって、感じてたの。でも、そういうのって、自分が自分に気づいてないと、すごく重たくなってしまうこともあるから……」
澪は、ふと店の奥から聞こえてくる笑い声に耳を傾けた。
誰かが冗談を言い、誰かが応える。明るくて、柔らかい音。でも、その波が自分に届くまでには、分厚い壁が一枚挟まっている気がした。
「私、壁があるんだと思う」
澪はぽつりと言った。
「それは、誰かを拒んでるとか、閉じてるとか、そういう意味じゃなくて……音とか、気配とか、視線とか、そういうのが一度、自分の中を通ってしまうと、全部が重くなってしまって、外に出す力が足りなくなる。笑うって、きっと、その“返す力”がある人の行動なんだと思う」
光里はしばらく黙っていた。けれど、やがて、言葉を探すように口を開いた。
「返すって、難しいよね。でも、無理に返さなくていいときもあると思う。笑えないとき、笑わなくてもいい空気を作ってくれる人がいてくれたら、それだけで、澪みたいな人はすごく助かる気がする」
「……笑ってるように見えても、必ずしもそうとは限らないんだよね」
「うん。私、前にちょっと無理して笑い続けたことがあって、そしたら、ある日突然、何も感じなくなっちゃったの。それからは、無理に明るくしなくてもいいんだって、やっと思えるようになった」
澪は、光里の言葉にゆっくりと頷いた。
壁はまだある。でも、それを打ち壊そうとは思わなかった。
ただ、こうして静かに会話ができる場所があって、気持ちをやりとりできる人がいるという事実が、ほんの少しだけ、その壁を薄くする。
シフォンケーキにフォークを入れると、空気を含んだ生地がふわりと崩れた。
口に入れると、甘さがやさしく広がり、思わず、澪の頬がゆるんだ。
「……おいしい」
それだけの一言に、光里は笑顔を見せた。
「うん、おいしいね」
窓の外には、春の手前の風が通っていた。
笑い声はまだ続いていたが、澪の中の渦は、少しだけ穏やかになっていた。
壁の向こうにある世界を、怖がるだけでなく、少し眺めてみようと、そんな気持ちになっていた。