第三話「片足だけで立っている」
夕暮れが街を静かに染めていく頃、灯はバイト先の建物を出た。
冷たい風が頬を撫で、長く伸びた影が地面を横切った。
その日は、何も特別なことが起きたわけではなかった。
ただ、灯にとってはいつも以上に重たい一日だった。
バイト中、彼女は小さなミスをした。
品物の数を間違えたわけでも、注意を受けたわけでもない。
誰も怒ったり、責めたりはしなかった。
けれど、灯の中には重くのしかかる罪悪感の塊があった。
「自分はダメだ」
「何をやっても満たされない」
言葉ではない。思考でもない。
ただ心の奥でじわじわと広がる暗い影。
周囲の声や空気は、まるでスローモーションのように響いた。
言葉は耳に入ってくるのに、頭の中で処理しきれず、ぐちゃぐちゃに絡まってしまう。
注意のない「大丈夫だよ」という言葉も、灯の心の壁を破れなかった。
バイト先の先輩、田岡が灯にそっと言った。
「立ってるだけで、すごいんだよ」
その言葉は、短くて簡単だった。
でも、灯にはその意味がすぐには理解できなかった。
「ただ立っているだけで、すごいって、どういうこと?」
灯の胸には、まだ焦りと苛立ちがうずいていた。
帰り道、いつもより重い足取りで歩きながら、灯はぼんやりと空を見上げた。
夕焼けが、薄いオレンジ色に街を染めていた。
高層ビルの谷間に、少しずつ夜の影が迫っている。
空の色は、その日はいつもより鮮やかで、どこか柔らかく見えた。
灯はその景色の中に、自分の居場所を探しているような気がした。
「もしかすると、立っているだけでも意味があるのかもしれない」
そんな思いがふと胸に浮かんだ。
灯の中でずっと鳴り響いていた「できなさ」が、少しだけ小さくなった気がした。
歩くことが難しい日もある。
動けない日もある。
でも、そのままでいていいのかもしれない。
片足で立っているような不安定な自分を、無理にもう一方の足で支えようとしなくてもいいのかもしれない。
灯はゆっくりと息を吐き、両足を地面にしっかりとつけて歩き出した。
冷たい風が肩を揺らし、日常の重さはまだ彼女を包んでいたが、前より少しだけ軽く感じられた。
歩きながら、灯は自分に言い聞かせるように呟いた。
「明日は、少しだけ違う日になるかもしれない」
その言葉は、灯の胸の中でそっと灯った小さな火だった。




