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第二話「風呂の境界線」

灯は部屋の明かりを落とし、浴室の扉を開けた。湯気はまだ立ち上っていない。水道の蛇口をひねり、冷たい水が最初に流れる。すぐに温かいお湯が混ざりはじめ、静かな音が響いた。


頭の中はまだざわついている。今日も、動くことの難しさに押しつぶされそうだった。朝、布団から抜け出すのに何十分もかかり、ご飯を作ることはできなかった。そんな自分にまた、苛立ちと罪悪感が膨らんでいった。


だが、灯は湯を溜める作業を続けた。何かを始めなければ、停滞するだけだと知っていた。ゆっくりとした動作が、ぎこちなくても、湯船へと身体を導くことが今の彼女には大切だった。


その日、光里から送られてきたメッセージが思い出された。


「好きな入浴剤を使うといいよ。香りが気持ちを少しだけ軽くしてくれるから」


灯は浴槽の縁に、先日買った小さな瓶を置いた。ラベンダーの香りが、ふわりと立ち上る。彼女は息を深く吸い込んだ。


しかし、浴槽の縁に手をかけると、身体が重く感じた。脳が整理されていないと、単純な動作が途端に大きな壁になる。入浴はただの行為ではなく、一種の挑戦のように思えた。


湯船にゆっくり沈みながら、灯は自分の心を見つめた。夢の中では、こんなに疲れずに動けていた。泣いて、笑って、当たり前の生活をしていた。だが現実は、過剰な情報の波に飲み込まれてしまう。心も身体も、疲弊してしまう。


「風呂に入らないと、気分がもっと沈む」と灯は気づいていた。何日も湯船に浸からずにいると、頭の中の霧が濃くなる。それはまるで、静かな水面に油の膜が広がっていくような感覚だった。


だからこそ、彼女は今日、またひとつの壁を越えたのだ。


浴槽の中で目を閉じると、薄暗い光の中に遠い景色が見えた。夢の中の街。そこでは、彼女がもっと自由に動き回り、何かを探し続けていた。


湯気の向こうで、現実の音が静かに響く。生活のリズムはまだ乱れているけれど、この小さな繰り返しの中に、灯はわずかな安心を見つけていた。


やがて彼女は身体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。鏡に映る自分の姿はまだぼんやりしている。けれど、確かにそこには、まだ生きている灯の姿があった。

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