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第十話「醒めないでいるために」

蝉の声が窓の外に満ちていた。夏の午後、カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の壁にうっすらと揺れている。灯は、その揺れをぼんやりと目で追いながら、まだ冷めきらない夢の記憶をたぐっていた。


今朝見た夢は、何かが終わったあとの静けさだけが残っていた。街も、人も、声もない。ただ広い広い場所に自分ひとりで立っていて、なぜか怖くなかった。不安もなければ、望みもなかった。ただ、風が吹いていた。やわらかくて、少しだけ寂しい風。


目が覚めてから、灯はそれを“寂しくない寂しさ”と名付けた。それは彼女の中に、最初からあったような感覚だった。


机の上には、描きかけのノートがある。文字ではなく、図でもなく、光や重さをまとうような色の断片。筆圧の強弱、ページの余白、それらすべてが、灯の中に散らばっていた思考や気配をつないでいた。


以前の灯なら、きっと今もベッドに潜っていただろう。窓を閉め切って、眠るふりをして、夢の中に身を沈めていただろう。夢のなかでは、何も説明せずに涙を流せたし、歩くべき道が自然と足元に現れた。現実よりも、ずっと親切だった。


けれど今日は、夢から醒めても、立ち上がっていた。


ゆっくりと窓を開ける。暑い風がカーテンを揺らし、灯の髪をさらっていく。遠くの電車の音、隣の家の洗濯機の音、どこかで聞こえる子どもの笑い声。それらが現実にいる証だった。


光里からもらった透明なクリップで、ページの角をとめる。彼女は「意味を考えすぎると止まるよね」と言った。その言葉が、今も頭の奥で呼吸している。


灯は、自分が何をしたいのか、まだよくわからない。でも、夢の中にすべてを預けてしまいたいとは、もう思わなかった。


現実は不意に重くなる。誰かと話すだけで、頭がもつれて、足元がふらつくような日もある。誰の言葉も、目線も、うまく受け取れない日が、これからも続くのだろう。


それでも、灯は思う。


「生きているしかない」と感じていた日々の中に、「生きている中で何かを持ちたい」と思える瞬間が、たしかにあったことを。


冷蔵庫にあったゼリーを皿に移し、小さなスプーンで一口すくう。ほのかな甘さと、冷たさ。口に広がった感覚に、すこし目を細めた。


この感覚を忘れたくない、と、思った。


それは大げさな願いではなく、ただの個人的な“印”のようなもの。小さな光。夢の輪郭に手を伸ばさなくても、現実の中に置ける何か。


灯はノートを開き、ゼリーの断面を小さく描いた。色のついた層、光の反射、透けるような部分。傍に、鉛筆で「きょうは、甘い」とだけ書く。


その文字が、まるで誰かへの返事のように見えた。


少しずつ、灯の中で現実が重なり始めていた。無理に走らなくても、無理に答えを出さなくても。ゆっくりと目を覚ましたまま、夢を思い出すように生きることは、できるのかもしれない。


窓の外で、風鈴が一度だけ鳴った。


灯は、まばたきをして、ペンを置いた。


このページも、今日の夢も、今見ている現実も、どれもそのまま重ねていく。


夢の中のようにやさしい場所ではないかもしれない。でも、ここにいることを、自分で認めたまま、立ち止まっていた。


醒めない夢のように。けれど、夢ではない現実として。

この物語は、ある静かな問いから始まりました。

「どうして、自分は夢の中では普通に生きられるのに、現実だと何もできなくなるのだろう?」


その問いは、主人公・灯の心の奥底でくすぶり続けていたものでもあります。誰かにわかってもらいたいけど、説明できない。言葉にしようとした途端に霧のように消えてしまう感覚。


それでも、人は生きています。動けないと感じながらも、毎日をなんとか過ごしている。

この物語では、そうした「止まっているようで、実は深く動いている内面の時間」を大切に描きたいと思いました。


「夢の中だったら」と願うことは、弱さではありません。現実から一時離れて、自分の輪郭を保とうとする、ある種の防御でもあるからです。

その上で、“夢ではない場所で生きてみよう”と静かに思い始めた灯のように、私たちも少しずつ、自分の歩幅で現実に触れていけたらと願います。


最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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