表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

第一話「眠りの回廊」

灯はいつものように、薄暗い部屋の中で目を閉じていた。

夢の中では、彼女は普通だった。笑い、話し、何の違和感もなく過ごしていた。誰かと食事を作り、風の香りを感じ、道を歩いた。そこでは涙も笑顔も、自然の一部としてあった。


だが、目覚めると違う。部屋の隅に落ちた靴下。壁のシミ。壁時計の秒針が時を刻む音がやけに鮮明だった。

「動かなきゃ」――そう思うのに、身体は布団に溶けていく。頭の中が整理されていない感覚。どの情報が優先されるべきかが曖昧で、すべきことがうまく結びつかない。

朝ごはんを作る。お皿を洗う。外に出る。どれもできそうでできなかった。脳の中の情報がぐるぐると渦巻き、足がすくんだ。


スマホを手に取って、ニュースを流し、バラエティの動画を見た。画面の中の声に、一瞬だけ笑みがこぼれる。

「楽しい」感覚はそこにある。

けれど、その楽しさはそのまま行動に繋がらなかった。まるで液体の中で溶けてしまったみたいに、次の一歩が出せない。


灯は深く息を吐いた。頭の中の声がざわついていた。

「もういいじゃん、私、生きなくても」

でも、死ぬことは怖かった。痛いのは嫌だし、誰かに迷惑をかけたくなかった。何より、自分がどうなるかが想像できずに怖かった。だから、ただ眠りの中で彷徨っている。


そんなとき、玄関のチャイムが鳴った。灯は慌てて布団から飛び起きた。

「誰だろう?」

ドアの隙間からのぞくと、そこには大学の後輩、加瀬光里が立っていた。


「灯先輩、ちょっと話せますか?」

光里の明るい声が、鈍く重くなった灯の心にそっと触れた。


灯は小さくうなずき、ドアを開けた。


灯は部屋の中に光里を招き入れ、玄関のドアを閉めた。二人の間に流れる空気は、何かが動き始める前の静けさのようだった。


「なんだか久しぶりだね、灯先輩とちゃんと話すの。」

光里はそう言って、少しだけ肩をすくめた。彼女の声は明るく、でもどこか柔らかくて、灯の胸の奥をそっと揺らした。


「そうかな……」灯は視線を落とす。

「最近、なんか……うまくいかなくて。頭の中が、いつもごちゃごちゃしてるみたいで。何をしたらいいのか、わからなくなるんだ。」


言葉にした途端、心の奥に溜まっていた重い霧が少しずつ揺らぎはじめた。


「夢の中だったら、ちゃんと動けるんだよね。泣いたり笑ったり、普通にできる。でも現実は違う。ご飯を作るのも、お風呂に入るのも、すごく億劫で……」


灯は言葉を詰まらせた。


光里はじっと灯の目を見つめて、うなずいた。


「わかるよ。私も時々そうなる。私の場合は、音楽を聴いてるときが一番ラクかな。頭が整理されるっていうより、雑音が少なくなる感じ。」


灯は少しだけ微笑んだ。光里が持っている小さな柔らかい光は、自分の中の陰に触れて、暖めてくれているように感じた。


「でも、そういう時って、動こうとしても動けないよね。」灯が言った。


「うん。私もよくそうなる。だから、動けない時は動かなくていいんだよって、自分に言い聞かせる。無理して動こうとすると、余計に頭が混乱しちゃうから。」


灯はその言葉を胸に刻みつけた。


「じゃあ、今日はちょっとだけお茶でも飲みながら話さない?」


光里はそう提案して、二人は台所に向かった。灯は光里の存在に引っ張られるように、ゆっくりと動いた。


ポットの湯が沸く間、灯はふと考えた。夢の中での自分は、いつもこんなに穏やかだっただろうか。あの世界では、頭の中の雑多な情報がまるで流れる川のように流れていて、足を取られたりはしなかった。


「脳の中の整理ができていないって、どんな感じなんだろう?」灯は小さな声でつぶやく。


光里が答えた。


「私の場合は、ワーキングメモリがいっぱいになったみたいな感覚。考えが詰まって、次に進めない。多分、灯先輩も似た感じじゃない?」


灯はうなずいた。自分の頭の中にある細かなイメージや情報が、渦巻きながらぶつかり合い、結びつけられないまま空回りしているのを感じていた。


「だから、夢の中では新しい情報があんまり入ってこないから、ラクなんだと思う。現実は、どんどん新しいものが入ってきて、頭の中があふれちゃう。」


灯はカップを手に取って、お茶をゆっくりとすすった。温かい液体が喉を通ると、少しだけ身体の奥がほぐれる気がした。


「でも、風呂に入るのも大変だ。頭が整理されていないと、湯船に浸かるための行動自体が重くて……」灯はつぶやく。


「そうそう。私もそれわかる。だから、私なりの工夫をしてる。好きな香りの入浴剤を使って、湯船に入るまでを小さなイベントにするんだ。そうすると、動く理由ができるから、少し楽になるよ。」


灯はそんな光里の話を聞きながら、少しずつ自分の中の硬い殻が割れていくのを感じた。


「ありがとう、光里。今日は来てくれて。」灯は素直に言った。


「また来るよ。灯先輩が無理しないでいられる場所になれたらいいな。」


光里の言葉は、灯の深く沈んでいた場所に、静かな灯火をともした。


夜になり、灯は久しぶりに湯を張った。ゆっくりと湯船に沈み、身体の緊張が少しずつほどけていくのを感じた。脳のざわつきは完全には消えなかったが、その日は眠りに落ちるまで、ほんの少しだけ軽くなっていた。


夢の中でも、現実の中でも、灯の世界はまだ揺れている。


だが、その揺れの中で、彼女は小さな一歩を踏み出そうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ