第一話「眠りの回廊」
灯はいつものように、薄暗い部屋の中で目を閉じていた。
夢の中では、彼女は普通だった。笑い、話し、何の違和感もなく過ごしていた。誰かと食事を作り、風の香りを感じ、道を歩いた。そこでは涙も笑顔も、自然の一部としてあった。
だが、目覚めると違う。部屋の隅に落ちた靴下。壁のシミ。壁時計の秒針が時を刻む音がやけに鮮明だった。
「動かなきゃ」――そう思うのに、身体は布団に溶けていく。頭の中が整理されていない感覚。どの情報が優先されるべきかが曖昧で、すべきことがうまく結びつかない。
朝ごはんを作る。お皿を洗う。外に出る。どれもできそうでできなかった。脳の中の情報がぐるぐると渦巻き、足がすくんだ。
スマホを手に取って、ニュースを流し、バラエティの動画を見た。画面の中の声に、一瞬だけ笑みがこぼれる。
「楽しい」感覚はそこにある。
けれど、その楽しさはそのまま行動に繋がらなかった。まるで液体の中で溶けてしまったみたいに、次の一歩が出せない。
灯は深く息を吐いた。頭の中の声がざわついていた。
「もういいじゃん、私、生きなくても」
でも、死ぬことは怖かった。痛いのは嫌だし、誰かに迷惑をかけたくなかった。何より、自分がどうなるかが想像できずに怖かった。だから、ただ眠りの中で彷徨っている。
そんなとき、玄関のチャイムが鳴った。灯は慌てて布団から飛び起きた。
「誰だろう?」
ドアの隙間からのぞくと、そこには大学の後輩、加瀬光里が立っていた。
「灯先輩、ちょっと話せますか?」
光里の明るい声が、鈍く重くなった灯の心にそっと触れた。
灯は小さくうなずき、ドアを開けた。
灯は部屋の中に光里を招き入れ、玄関のドアを閉めた。二人の間に流れる空気は、何かが動き始める前の静けさのようだった。
「なんだか久しぶりだね、灯先輩とちゃんと話すの。」
光里はそう言って、少しだけ肩をすくめた。彼女の声は明るく、でもどこか柔らかくて、灯の胸の奥をそっと揺らした。
「そうかな……」灯は視線を落とす。
「最近、なんか……うまくいかなくて。頭の中が、いつもごちゃごちゃしてるみたいで。何をしたらいいのか、わからなくなるんだ。」
言葉にした途端、心の奥に溜まっていた重い霧が少しずつ揺らぎはじめた。
「夢の中だったら、ちゃんと動けるんだよね。泣いたり笑ったり、普通にできる。でも現実は違う。ご飯を作るのも、お風呂に入るのも、すごく億劫で……」
灯は言葉を詰まらせた。
光里はじっと灯の目を見つめて、うなずいた。
「わかるよ。私も時々そうなる。私の場合は、音楽を聴いてるときが一番ラクかな。頭が整理されるっていうより、雑音が少なくなる感じ。」
灯は少しだけ微笑んだ。光里が持っている小さな柔らかい光は、自分の中の陰に触れて、暖めてくれているように感じた。
「でも、そういう時って、動こうとしても動けないよね。」灯が言った。
「うん。私もよくそうなる。だから、動けない時は動かなくていいんだよって、自分に言い聞かせる。無理して動こうとすると、余計に頭が混乱しちゃうから。」
灯はその言葉を胸に刻みつけた。
「じゃあ、今日はちょっとだけお茶でも飲みながら話さない?」
光里はそう提案して、二人は台所に向かった。灯は光里の存在に引っ張られるように、ゆっくりと動いた。
ポットの湯が沸く間、灯はふと考えた。夢の中での自分は、いつもこんなに穏やかだっただろうか。あの世界では、頭の中の雑多な情報がまるで流れる川のように流れていて、足を取られたりはしなかった。
「脳の中の整理ができていないって、どんな感じなんだろう?」灯は小さな声でつぶやく。
光里が答えた。
「私の場合は、ワーキングメモリがいっぱいになったみたいな感覚。考えが詰まって、次に進めない。多分、灯先輩も似た感じじゃない?」
灯はうなずいた。自分の頭の中にある細かなイメージや情報が、渦巻きながらぶつかり合い、結びつけられないまま空回りしているのを感じていた。
「だから、夢の中では新しい情報があんまり入ってこないから、ラクなんだと思う。現実は、どんどん新しいものが入ってきて、頭の中があふれちゃう。」
灯はカップを手に取って、お茶をゆっくりとすすった。温かい液体が喉を通ると、少しだけ身体の奥がほぐれる気がした。
「でも、風呂に入るのも大変だ。頭が整理されていないと、湯船に浸かるための行動自体が重くて……」灯はつぶやく。
「そうそう。私もそれわかる。だから、私なりの工夫をしてる。好きな香りの入浴剤を使って、湯船に入るまでを小さなイベントにするんだ。そうすると、動く理由ができるから、少し楽になるよ。」
灯はそんな光里の話を聞きながら、少しずつ自分の中の硬い殻が割れていくのを感じた。
「ありがとう、光里。今日は来てくれて。」灯は素直に言った。
「また来るよ。灯先輩が無理しないでいられる場所になれたらいいな。」
光里の言葉は、灯の深く沈んでいた場所に、静かな灯火をともした。
夜になり、灯は久しぶりに湯を張った。ゆっくりと湯船に沈み、身体の緊張が少しずつほどけていくのを感じた。脳のざわつきは完全には消えなかったが、その日は眠りに落ちるまで、ほんの少しだけ軽くなっていた。
夢の中でも、現実の中でも、灯の世界はまだ揺れている。
だが、その揺れの中で、彼女は小さな一歩を踏み出そうとしていた。