【第7話-2】回想-施設の記憶-
「はやくはやく! 碧、見てよあれ! ほんとのウサギだよ!」
その声に、碧は小さくため息をつきながらも歩を速めた。
白衣の研究員が案内する施設の廊下は、薄暗くて、床がツルツルしている。
けれど、子どもたちはまるで社会科見学のノリで、目を輝かせていた。
碧と海千留は、まだ小学一年生。制服も小さく、袖が余っていた。
「元気じゃねぇかよ。おばさん心配しすぎなんじゃねぇか?」
海千留はこの頃から体調を崩しがちな子どもだった。
「この子たちは、皆さんの未来のために協力してくれている動物たちです」
研究員は、幼い子どもたちにそう語りかける。
展示ホールの壁には《科学は命を救う》という大きなスローガンが書かれ、白衣の研究員たちが子供たちに手を振る。
小さな子どもたちの目には、それがまるで魔法のように見えた。
子どもたちは口を揃えて「お医者さんみたいでかっこいいね」と囁いた。
誰もが、正しいことだと思った。
観察室・ホログラム展示・子ども向けの「クイズ」や「スタンプラリー」などを交えた体験コーナー。
明るくクリーンな環境、動物は健康的で可愛く装飾されたケージ内。
ガラスの奥に見えたのは、うさぎ、犬、猫、猿。
どの個体にも、首輪やコードが付けられ、まるで検体のように整列していた。
「ここでは動物たちに最適な環境を与えて、医療や環境回復の研究をしています。 生き物は、最適な条件で管理すれば喜びます」
研究員はそう説明し、モニターに映る動物たちのバイタルや脳波データを「幸福指数」と呼んだ。だが、碧の心にはそのとき、小さな石のような違和感がひとつ、落ちたのだった。
「生き物は最適な条件で管理すれば喜びます」
──ほんとうに?
「動物園っていうより、動物のおうちみたいだね」
「こいつらにとっては、ここが家なんだろ」
「広いおうちでいいなあ」
海千留は施設を見まわしながら笑った。
「ほら、このお皿にニンジンを入れて、
そーっとね。びっくりさせたらダメだよ」
研究員が優しく声をかける。
子どもたちは紙皿を手に、ガラス越しの小さな穴から餌を差し出していった。
「海千留、それウサギじゃなくて、ネコのとこに入れようとしてる」
「えっ! あ、ほんとだ、ごめんね、ネコちゃん!」
海千留は慌てて手を引っ込め、今度は正しい部屋に餌を差し込む。
ネコはちらりと見るが、まるで興味がなさそうに顔を背けた。
「この子、食べない……」
「たぶんお腹空いてないんじゃない?」
碧が横から言う。けれどその声も、どこか自信がなかった。
ケージの隅、ガラス越しにこちらをじっと見ていた猫だけが、なにかを“考えている”ように見えた。
同じ部屋の中にいくつものゲージが並んでいる。
白く小さなネズミが、ずっと丸くなって動かない。寝ているのか、それとも。
海千留は静かに言った。
「この子たち、ほんとはあんまり、楽しくないのかもしれないね……」
碧は隣にいた海千留を見た。
動物に餌をあげることを無邪気に楽しめない海千留。
「ねぇ碧、あたし、全部飼いたいなあ。
うちに連れて帰ったら、お母さんも絶対喜ぶと思うんだ」
「そんな事したら、おばさん絶対怒るよ」
「話せばわかってくれるってば」
碧は返事をしない。
代わりにじっと、奥のケージを見ていた。
黒く焼けた鉄の柵の中。
毛がまだらに抜け落ちた猫たちが、丸くなって震えている。
その一匹が、目だけをゆっくりとこちらに向けた。
──目。 その猫の目が、妙に印象に残っている。
感情があるようでないような、でも……人間に似た“理解”をたたえていた。
碧は、はっきりとは覚えていない。
ただ、その瞬間だけ空気が変わったように思った。
「碧、だいじょぶ?」
隣で心配そうにのぞきこむ海千留の顔に、碧は微笑んでうなずいた。
「……うん、平気。なんでもないよ」
小さな手をつないで、また次の部屋へ移動する。
けれど碧は、振り返ってもう一度、あの猫を見た。いや、見ようとした――。
だがその姿はもう見えなくなっていた。
研究施設の白く無機質な回廊を抜けると、
子どもたちの前に広がるのは、まるで近未来のガラス動物園のような部屋だった。
小さなケージに収められた動物たちは、
温度や湿度、栄養管理が徹底された空間の中で静かに座っていた。
無駄に動くことも鳴くこともない。
監視カメラが天井の四隅に設置され、
各個体の状態を常時モニタリングしている様子が見て取れる。
「この子たちは、最適な条件で管理されています。
清潔な空間、計算された食事、ストレスのない環境。だから、幸せなんですよ」
白衣をまとった女性研究員が、にこやかに説明する。
だが、その言葉を聞いた碧は、なぜだか胸の奥がぞわぞわと落ち着かなくなった。
ガラス越しにこちらをじっと見つめる猿。
身動きひとつしない猫。
片耳が欠けた犬が、何かを我慢するように瞬きもせず、動かない。
「でもさ…なんか、笑ってないよ?」
「笑ってるよ」 後ろから研究員の穏やかな声がした。
白衣を着たその男は、優しく微笑んでしゃがみ込み、碧と目線を合わせた。
「動物たちはね、こうして人の役に立てるのが一番幸せなんだよ。
最適な光、最適な温度、最適な餌。全部、計算されてる。
だから安心していいんだ。…笑ってるんだよ、心の中で」
「……そう、なの?」
「うん。君たちだって、学校で決まった時間に勉強して、ご飯を食べて、寝てるでしょ?
それと同じ。管理されている方が、命はずっと安全で、ずっと幸せなんだ」
碧はうなずきかけた。
でも、ネズミのガラスの向こうの目が、何かを言いたげに見えて──
それでも、 その気配はすぐ、研究員の優しい声に上書きされた。
「科学は、命を守るためにある。
動物たちも、それをわかってるんだ。
──君も、お利口さんだね」
その言葉に、碧は反射的に頷いた。
小さな心の違和感は、胸の奥へと沈んでいく。
やがて、「そう思うことが、正しい」と自分に言い聞かせるように、 碧は海千留の手を握った。
当時小学1年生。
彼女はケージの近くにしゃがみ込み、猫に向かって小さく手を振っていた。
「たぶん、この子、うれしくないよ」
研究員は少し困ったように笑いながら、
「喜びは表情だけで判断するものではないですよ」と返した。
研究員の声はどこか機械的で、でも優しかった。
碧も海千留も、動物たちの目の奥に“何かを訴えているような違和感”を感じていた。
教室で「よく考える子」は時に疎まれると知っていた。
だから、何も言わなかった。ただ、碧の手を握り返した。
それが、この国で生きていくための「お利口さん」の形だった。
その感覚は言葉にはできなかったが、小さな芽のように心の中に根を張り、やがて何年もかけて少しずつ膨らんでいくのだった。