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【第7話】平穏な日

朝。カーテン越しのやわらかな光が、白い部屋の中にそっと降りていた。


静かな吐息のような風が、開け放たれた窓からふわりと入り込む。

ベッドの上、少女・海千留はまだ眠たげな瞳で目を開けていた。

心臓の鼓動がまだ重く、体を起こすのも少し時間がかかる。

それでも、彼女は小さなため息をひとつ吐き、ゆっくりと体を横に起こす。


「おはよう、あいりゃ」


──あいりゃが、ぴくりと耳を動かす。

声をかけられたのは、部屋の隅に置かれた毛布の上。

くるりと丸まって眠っていた猫。


そう呼びかける声に、丸まっていた猫がゆっくりと目を開けた。

あいりゃはまるで、少女の声を確かめるように顔を上げ、海千留の顔をじっと見つめる。

その瞳はまだどこか迷いを含んでいるけれど、確かに「ここにいる」という意思を持っていた。


海千留はそっと、ふくらはぎのあたりをさすりながら立ち上がり、 ゆっくりとキッチンのある隣の部屋へ移動した。



白いカウンターの上、買い置きのパウチフードを選ぶ指先は細くて弱々しい。

でもその手には、どこか“生き物を育てる人間”だけが持つ温もりがあった。


「今日も、あったかいやつにしよっか……猫はサーモン、好きだったよね?」


袋を開ける音に、あいりゃの耳が反応する。

毛布の上からさっと顔を上げた。


「飼った事ないからなー。お母さんがうるさくて。」


小さな白い器に、やさしい匂いのフードが盛られた。

海千留はしゃがみ込み、目の高さを猫に合わせて器を差し出す。


「どうぞ、召し上がれ──」


あいりゃは一瞬、少女の顔をじっと見た。

何かを測るように。何かを感じるように。


「ここはもう安全だから」


ぽつりと零れた言葉は、二人だけの静かな約束のようだった。

指先で器を差し出すと、あいりゃは警戒しつつも、少しずつ匂いを嗅ぎ、そして静かに食べ始めた。

その様子を見つめながら、海千留の胸には温かいものがゆっくりと広がっていく。


くちゃ、くちゃ、と、柔らかな咀嚼の音が部屋に響く。

その音を聞きながら、海千留は微笑む。

それは、誰にも見せない、まるで花がほころぶような笑顔だった。


「生きてて、えらいね」



ぽつり、とこぼれたその言葉は、あいりゃの耳には届かなかったかもしれない。

けれど確かにその瞬間、あいりゃのしっぽが、ふわりと揺れた。


それは、戦場でも研究所でもない。 名前のない、穏やかな朝だった。



玄関チャイムが鳴って、海千留の心臓がちょっとだけ跳ねる。


「誰だろう…?」


ドアがゆっくり開き、元気いっぱいの声が飛び込んできた。


「おーい、海千留!」


碧が、にっこり笑いながら風のように部屋に入ってきた。


「碧。あれ? 今日も学校休みじゃなかったっけ」

「休みじゃ来ちゃダメなんか。 今日も明日も休校だってさ。外出は控えろって。」

「具合悪いっていうから、心配すんだろ」

「えへへ。でも大丈夫。具合悪いっていっても、こんなに声が出せるなんてさ」


海千留は小さく笑い、少し恥ずかしそうにうつむいた。

碧は手にしていたバッグを置き、部屋の隅の毛布の上に目をやった。


「誰かいるの?」

「ああ…」


海千留が答えながら、ふわりと毛布の上に目を向けると、あいりゃが静かに頭を上げた。

碧の足がぴたりと止まる。

あいりゃの瞳が、まっすぐに碧を見つめた。

碧は一瞬、言葉を失った。猫のようで、でもどこか人間の瞳の奥のような深さがあった。


「拾ってきたの」


碧は初めて見る猫に少し驚いた様子だったが、すぐに柔らかな表情に変わった。


「お前......おばさん、怒るぞ」


碧はあいりゃを見て、少し笑う。


「……ま、可愛いから許されるかもな」


そう言って肩をすくめたあと、窓の外に目を向けた。

その横で、海千留はそっと、あいりゃの毛並みに視線を落とす。

あいりゃはふたたび毛布の上にくるりと丸くなっていた。

幼い頃から、母には言われてきた。


「生き物はね、“好き”なだけじゃ守れないの」


その言葉はずっと、どこか冷たいと思っていた。


でも、大人になればなるほど、それが現実の重みなのだとわかるようにもなってきた。

──だけど、それでも。

雨の中で、必死に震えていたこの小さな命を、どうしても見捨てられなかった。

それが“正しくなかった”としても。


あいりゃのしっぽが、眠りの中でふわりと揺れる。


碧は毛布の上で眠るあいりゃをじっと見ていたが、ふと、海千留のほうに顔を向ける。


「……で、どうすんの。これ、ずっと飼うつもり?」


問いかけに、海千留は視線を逸らす。部屋の片隅に目をやったまま、ぽつりとつぶやく。


「……別にいいじゃん、猫くらい」


その声は、どこか拗ねたようで、でもどこか甘えているようでもあった。

碧は肩をすくめて、大げさにため息をついた。


碧はしゃがみ込み、そっと手を伸ばしてあいりゃの頭を撫でようとした。

しかしその瞬間──ぴくり、とあいりゃの耳が動き、スッと体を引いた。


「おっと……逃げられた」


碧は眉を上げ、少し驚いたように笑う。


「全然懐いてねぇじゃん」

「まだここに来たばかりなんだから」

「バリバリに警戒してる」

「触るのはまだ無理だよ」


碧はあいりゃのそばにあるお皿に気付く。


「おい、まさか……それ、本物のサーモンか?」

「うん。パウチに書いてあった。サーモン味、って」

「お前、マジか……。猫にサーモン与えるとか……母ちゃんが知ったら嘆くぞ」


碧は思わず頭を抱えるようにして声をあげた。

海はもはや「食の源」ではなくなっている。

数十年間の戦争と汚染で、多くの海洋区域は重金属や放射性物質に侵され、

野生の魚は食用に適さなくなっている。

今、家庭で口にできる魚は、管理区域で陸上養殖されたものか、 内陸の清浄な川で採れたわずかな川魚、あるいは大豆や昆虫由来の“魚風食品”。

サーモンなど、貴重な養殖枠の上級品であった。



「お前さ……。それ、自分で食ったほうが栄養になるんじゃ……」


海千留は器をあいりゃの前にそっと置きながら、ぽつりとつぶやいた。

その言葉には、優しさと少しの諦めが滲んでいた。


「……お前ってさ、ほんと変わんねぇな」


あいりゃは器の前に座り込み、静かに器に残ったサーモンフードを舐め始める。

その姿を見ながら、碧は複雑そうに息を吐いた。


「お母さん、怒るかな?」

「怒るだろ、そりゃ」

「内緒にして」

「まったく、お前ってやつは……」


呆れたように言いながらも、口元にはかすかな笑みが浮かぶ。


「……ま、似合ってるよ。そうやって人助けして、困ってる顔するの」


海千留は少しだけ眉をひそめたが、何も言い返さなかった。

碧がぽつりと問いかけると、海千留はあいりゃを見つめたまま、小さくため息をついた。


「お母さんは昔から、“正しいこと”しか言わない人だったな。感情より、理屈と責任が先」


あいりゃは静かにサーモンを舐めている。

その首元には、少し古びた金属の首輪。そこには、細い刻印でこう記されていた。



No.101 airya



「……その首輪、最初からついてたの?」



碧が気づいて問うと、海千留はうなずいた。


「うん。拾ったときにはもう、これがついてた。名前っぽいけど、“101”って……何なんだろうね」

「ペットのタグにしては、随分と味気ないな。動物愛護局の管理番号って感じでもないし……」


碧はしゃがみ込んで、あいりゃと目線を合わせる。

その瞬間、猫の瞳がゆっくりと彼を見返した。


(……まただ)


碧の背筋に、かすかなぞわりが走る。

この猫は、人間の「言葉」を理解している──と錯覚させるような、そんな目をしていた。

ただの動物ではない。明確に「見ている」。


「……なんかさ、こいつ、俺らのこと試してるみたいだよな」

「え?」

「目が……変なんだよ。猫じゃなくて、人間が中に入ってるみたいな」

「何言ってんのよ。そんなわけないでしょ」



その言葉に、碧は再びあいりゃの瞳を見つめる。

──まるで、「誰か」と目が合っているような感覚。


無機質な首輪の“airya”という文字が、不気味なほど意味を持ち始めていた。


「……名前、なのか? ‘airya’って」

「どうなんだろ。でも、それしか手がかりないから、そう呼んでる」


海千留はあいりゃを持ち上げた。



「あいりゃはどこから来たの?」


あいりゃは鳴きもせず、じっと海千留を見ている。


「あいりゃと話せたらよかったのにね」


「…こいつ、誰かの飼い猫だったりしてな」



この猫が新国家軍事圏の保有する兵器である事は、二人には知る由もなかった。


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