【第6話】孤独な子どもたち
「君、大丈夫……? そんなとこで」
あいりゃは気を失いながらも、 その声を、一生忘れなかった。
「すごく冷たいな……息はある。大丈夫」
闇の中、あいりゃの記憶に微かに焼きつく。
人間の温かい指先──
──目が覚めたのは、音のない朝だった。
天井を見上げる。白い。しみひとつない。
いや、ほんの少し、木の節のような影が、光を裂いていた。
目をこらすと、それが「天井」ではなく「布」であることに気づいた。
自分は柔らかく乾いたタオルの上にいた。
毛布のようでもあり、どこか懐かしい「陽だまりの匂い」がする。
動こうとして、後ろ足に走る痛みに息が詰まった。
裂けた皮膚は乾いて固まり、かさぶたのようなものに覆われている。
熱源も注射も、処置装置もない。
けれど── 「治ろうとしている」のを、細胞が自分で感じている。
自分の体を、光が包んでいた。
日の光だ。
研究所では、決して届かなかったもの。 それだけで、呼吸が浅くなる。
そのとき、小さな気配が近づいてきた。
白いシャツ。首元にあどけない寝癖。
長い髪をひとつに結ったその少女は、何も言わず、そっと皿を置いた。
「おたべ」
温かいミルクの香り。パンの細切れ。甘いりんごの欠片。
そのすべてに、毒物やDNAスキャナの反応はなかった。
「君のだよ」
恐怖より先に、身体が動いた。 一歩ずつに痛みが走る。
けれど──止まらない。
咀嚼音が、脳の一部を解凍していく。
こんな味、知らない。 ただ、温かい。
咀嚼のたびに、自分の中の異常な静けさが崩れていく。
「お腹、空いてたんだね」
少女がそう言った。
その声には、管理者が発する命令音も、冷酷な測定意図もなかった。
ただの、ことば。空気を震わせるだけの、ことば。
その夜、少女は自分の隣に横たわった。
柔らかな布団の端に寝そべり、腕を組んで空を見ていた。
「……それって名前?」
少女は首輪に刻まれた文字に目をやる。
問いかけに、返事はできない。自分は、猫だ。
「あいりゃって呼ぶね」
── 記録された名ではない、「呼ばれる」ための名。
あれは、研究所のデータベースに刻まれた識別子。
だがこの少女は、「名前があって当然」と思っていた。
「あいりゃ」
この声に、「No.101」の細胞がざわめいた。
「お前はここにいていい」という、呪文のような行為。
世界が自分を拒絶しても、この小さな部屋だけは、自分を個体として見る。
「……なんて読むのかわからないけど、
きっと、意味があるんでしょ。誰かが、つけたんだよね」
少女は、そう言って笑った。
その声は、世界のどのマザーAIよりも柔らかく、非効率で、あたたかかった。
その夜、夢を見た。 研究所では与えられなかった夢。
ひとの手の中で、ただ眠るだけの夢。
その朝から、「兵器」は初めて、命になった。
…………午後。部屋に差し込む光が弱くなるころ、 少女はベッドからゆっくりと体を起こした。
咳が、二度。
細い肩が小さく揺れ、彼女は胸元を押さえてしばらく目を閉じる。
ベッド脇の棚には、処方薬が数本。
吸入器、数枚の検査結果、そして医者のメモ書きが無造作に置かれている。
けれど、少女はそれらに目を向けることなく、 ゆっくりと椅子に腰かけ、パソコンの前に座った。
部屋の隅にある机は、木の温もりを残していたが、
その上には光る機材、リングライト、小さなカメラ、マイク。
整然とした環境のなかで、少女は少しだけ緊張した表情を浮かべていた。
「大丈夫、まだ動ける。声も……ちゃんと出る」
小さく呟いてから、スイッチを入れる。
カメラの前で髪を整え、ライトの角度を微調整する。
その所作には慣れがあった。彼女の日課のようだった。
──ログイン。
画面の中で、別の「海千留」が目を覚ます。
少しお姉さんで、元気そうで、声も明るい彼女がそこにいた。
画面の中に広がるのは、別の世界だった。
淡いブルーと白で構成された空間に、アバターの少女が映っている。
「じゃあ...始めます」
声が変わった。
口調が切り替わった。
けれど、心は同じ音をしていた。
『こんにちは、みちるです。今日も少しだけ、おしゃべりしませんか?』
チャット欄が一気に動き出す。
“おかえり!” “無理してない?”
“今日の声、すごく落ち着いてるよ”
画面の向こうにいる誰かたちが、一斉に手を振るような気配。
少女は微笑んだ。 胸の奥の痛みが、一瞬だけ遠くに行く。
画面の向こう、光の粒のようにアイコンが浮かび、
“みちる”と呼ばれる少女の声に世界が応え始める。
『こんばんは。今日もみんな、ありがとう』
「今日も来れたよ!」
「病院Wi-Fi弱すぎて泣いたw」
「薬の副作用どうだった?」
少女は、ひとつひとつの言葉を見落とさないように、丁寧に視線を走らせていく。
『ユウトくん、また来てくれてありがとう。レモンのゼリー、食べられた?』
『ミサキちゃん、明日手術だっけ……緊張するよね。深呼吸、いま一緒にやってみる?』
『コウくん、アニメの続きを教えてくれたんだよね。まだ観てないけど、絶対観るって決めた』
──画面越しの誰かが、確かに笑った。
──画面越しの誰かが、泣くのを我慢して、必死にキーボードを打っている。
『えっとね、私は今日も外には出られなかったけど、 でも、窓から見える空がね、すごく青かったの。』
少女は語った。 戦争で学校が休校になったこと。
親が遠くの研究都市に行っていること。
そして──「猫を拾った」こと。
『まだ痩せててボロボロだけど……でも、すごく、あったかいの』
言葉の一つひとつは、電波に乗って世界に広がっていく。
その様子を、あいりゃは静かに見ていた。
「通信」という概念は理解していたが、これは違う。
あいりゃの知る「通信」とは、命令、監視、報告、制御の道具だった。
でもこの少女は、自分の気持ちを、 誰かも知らない相手に「渡して」いた。
自らの孤独な言葉を、世界に投げていた。
『……この子を見てると、なんか、私自身のことも少しずつわかる気がして。』
少女は笑った。 配信の終わりに、視聴者からのコメントが流れる。
どんどん、誰かの声が届いてくる。
それは命令でも、監視でもない。
あいりゃには分かった。
これは「承認」だった。
少女が発した言葉に、世界が答えてくれる。
「存在していいんだよ」と、見知らぬ誰かが繰り返してくれている。
あいりゃは目を細めて、少女の背中をじっと見つめた。
その華奢な肩。光の粒子のように弱々しいけれど、 けして、折れてはいなかった。
この子は、弱い。 でも、この子は、つながっている。
彼らの間にあるのは、**見返りではない、対等な“寄り添い”**だった。
あいりゃは初めて知った。
人間の声は、こんなにも優しいものなのか。
その声は、痛みに寄り添い、孤独を照らすことができるのか。
だからこの少女は、弱くても、ひとりじゃなかったのだ。
この空間にこそ、見えない“仲間たち”が、確かに生きている。
配信が終わると、海千留はゆっくりとディスプレイを閉じた。
その瞬間、部屋にしん……と、音が落ちる。
壁掛け時計の針の音が、やけに大きく感じられた。
部屋はさっきと同じはずなのに、空気が急に冷たくなった気がする。
海千留は、いつものように咳をひとつ。
咳のあと、ほんの少しだけ顔をしかめて、胸に手を当てた。
そのまま、椅子の背にもたれかかり、天井をぼんやり見上げる。
口元には笑みがあるけれど、どこか遠くを見ている。
──誰もいない部屋。
──誰の声もしない時間。
あいりゃは、布団の上からじっとその横顔を見つめていた。
さっきまでの、にぎやかでやさしい“声の海”は、もうそこにはない。
ただ、一人の人間が黙って座っているだけだった。
けれど──あいりゃには、わかった。
この沈黙の中にこそ、**海千留の“本当の時間”**があった。
誰かのために光を灯したあと、自分の部屋に帰ってくるような。
誰にも見せない部分を、そっと胸の奥にしまって生きているような。
「私はね、帰りをずっと待ってるの。
お父さんもお母さんも、ずっと研究の事ばっかり」
「世界のためだなんて言うけど。
具合悪い時くらい、ここにいてくれたっていいのに」
それでも、あの少女は笑っていた。
声が届く限り、今日も“つながる”ために、生きていた。
その姿は、研究所で見たどんな人間とも違っていた。
あいりゃの胸に、小さく、けれど確かな何かが芽吹いた。 それが何かは、まだ分からなかった。
でも、それはきっと── “名前”が芽吹く前の、最初の、光のようなものだった。