【第48話】アビス・クレイドルと、溶けた機体
海は黒く、波はまだ怒りを宿していた。
触腕はすべて崩れ、海面に沈む。
「……ふう。風圧が、凄すぎ……」
澪は息を荒くしながら機体を整えた。
「……あいつ、どこいった?」
澪はあいりゃの姿を探す。
地上へ飛ばされたあいりゃのMAは放射干渉の使いすぎで半分が溶け、蒸気を上げていた。
放射の影響で装甲の一部が歪み、青白いノイズが残るMAの姿は、まるで生き物のように痛々しかった。
潮田の声が通信越しに届く。
「二人とも、お疲れさん」
海洋体の向こうに、水平線を駆け抜けた旧国家のMA-01、潮田 潤の姿がちらりと見える。
「横やりを入れてくれて。どうもありがとう」
澪はあいりゃの方に向かい進んでいく。
「お前の動きは悪くない。だが、まだ“生き残る技術”が足りてない」
ーーそんな事、わかってるっつーの。
凛は黙ったまま進み続ける。
「……考えてるうちは、奴は斬れない」
「そんな事ない。切れるわ!」
「君達の連携じゃ、この海は越えられん」
潮田はそれだけ言って、北の方角に飛び立っていった。
「……嫌い。あんたの動きはもう、人間じゃない」
澪は思わず呟いた。
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基地の格納庫。
あいりゃのMAは帰還ゲートをくぐる瞬間、
光の外殻が「じゅ……」と溶け落ちていくような音を立てた。
半分、骨格がむき出し。
熱で歪んだフレームが痛々しい。
澪はハッチが開くなり膝に手をつき、大きく呼吸した。
「っは、……ヤバ……死ぬかと思った……!」
一方であいりゃは、破損した機体から音もなく降り立ち、
無表情のまま、静かに周囲を見渡していた。
その姿を見つけて、碧が駆け寄る。
「……あいりゃ!!」
碧の声が震えていた。
青いシャツの胸元を握りしめながら、走り寄ってくる。
あいりゃはゆっくり顔を向ける。
「碧。無事?」
「ああ…俺は大丈夫。
その機体……半分溶けて……」
言葉が途中で詰まり、碧は歯を食いしばった。
「何されても大丈夫。
私は……そういうふうに出来てる」
「そんな事ない!」
あいりゃは一瞬だけまばたきし、碧をまっすぐ見つめ返した。
「壊れたのは機体だよ。私じゃない」
討伐の知らせを受けて、低く冷たい声が響いた。
「みんな、ご苦労」
司令室後方でデータを収集していた神崎。
碧の視線が自然とそこに向かう。
神崎の軍服には新国家の階級章──どこかで、見覚えがある。
「——随分と、派手に壊したな」
新国家軍の軍服。
その胸元にある階級章。
そして——肩章に刻まれた 桜の紋章。
その瞬間、碧の目が大きく揺れた。
フラッシュバックが走る。
運ばれていく海千留の姿。
人々の中に立っていた一人の軍人。
——海千留が連行された日。
あの日、碧は海千留が連れられていくのを、見送るしかなかった。
青い海に反射する夕陽の光、混乱する群衆、運ばれる海千留。
あの瞬間、自分は何もできなかった。
胸が締め付けられ、手足が動かなかったあの記憶が、一気に蘇る。
「神崎さん、お疲れ様です」
凛が敬礼をすると、
あいりゃも合わせて敬礼で返した。
——あの桜。
——あの横顔。
「……嘘、だろ……」
碧の呼吸が乱れ、喉が音を失う。
神崎は碧に気づき、無表情のまま視線を向けて去っていく。
「海千留っ……!」
碧は一歩前へ踏み出し、神崎に声をかけた。
「あの、すみません」
思わず声が震えた。
声に力を込め、拳を握りしめる。
「海千留は、ここにいるんですか?」
「君は——」
神崎も碧の顔を見て、海千留を移転した日を思い出す。
「なぜ敵兵がここにいる?」
「僕は…旧国家とは関係ありません」
「ほう…。
君の兄は、旧国家のMAパイロットだと記憶しているが」
「僕は...関係ありません」
神崎は碧を見下ろしたまま、足を止める。
「......そうか」
「——海千留はここにいるんですか?」
思わず声が震えた。
「...ここにいる」
碧は踏み出す。足元の格納庫の床が冷たいことも、周囲のざわめきもすべてかき消される。
「お願いします!海千留に...会わせてください...」
神崎はじっと碧を見下ろす。
冷たい瞳の奥に、何か計算されたような光が揺れた。
「ここは軍の施設だ。一般人を、患者に合わせる訳にはいかない」
「お願いします! 俺は...俺は海千留の家族です!」
「会ってどうする?」
「俺は。俺は、どうしても…!
海千留に、言わなきゃいけない事があるんです!」
「海千留ちゃんに会っても、君に出来る事は、何もない」
声は低く、正確で、反論の余地を許さなかった。
碧は口を開け、必死に食い下がろうとするが、言葉はうまく出てこない。
「お願いします!」
「だめだ。」
胸の中の熱と怒りが、どうしようもなく渦巻く。
「俺が、海千留のために、何か──何かできることはありますか……!」
碧の目は必死に神崎を捉え、手が震え、全身が戦場での無力感と悔しさで震えた。
冷たい基地の空気の中、碧の叫びだけが熱く、真っ直ぐに響き渡る。
神崎は黙ったまま碧を見据える。
何も答えないその沈黙が、逆に碧の心をえぐった。
——自分は、何もできない。
あいりゃが戦場で傷ついても、
海千留が目の前で苦しんでいても、
俺には、何も——
その無力感の中で、碧は拳を握りしめる。
「他人のために何かが出来るなんて、自分勝手な幻想なんだよ!
自分に何が出来るのかは、お前自身が見つけ出せ」
格納庫の喧騒から離れた、照明の届かない片隅。
巨大MAの影が落ち、そこはわずかに冷たい空気が溜まっていた。
碧は唇を噛みしめた。
神崎は視線を逸らし、碧に背を向けながら言った。
「海千留は“生きている”。今日は帰れ」
神崎の足音が遠ざかっていく。
碧は、その場に立ち尽くしたまま動けなかった。
「……ひどい顔してんな、お前」
唐突に声がして、碧ははっと振り向いた。
照明の柱の影から、城真が腕を組んで立っていた。
さっきまでの鋭い司令官の顔ではない。
どこか、兄が弟を見るようなまなざし。
「……聞いてたんですか」
「少しな。耳がいいもんで」
城真はゆっくりと歩み寄り、
まだ強張ったままの碧の肩を軽く叩いた。
碧はうつむく。
「子供扱い、しないで下さい」
「お前は子供だ」
城真は微笑んだ。
「でも、“だから終わり”って話じゃねぇだろ。出来る事を探せ」
その言葉に碧は顔を上げる。
城真は笑った。
「行くぞ。あいりゃが心配してる」
城真はぐいっと碧の腕を引っ張る。
碧は戸惑いながらも、その手を払いのけず、歩き出した。
格納庫の中央へ向かう。
そこには、溶けたMAに寄り添うように立つあいりゃの姿。
無意識に唇を噛み、表情は固い。
その変化——
「……碧、どうしたの」
無表情のまま、それでも声音にだけ揺れが混じる。
誰も気づかないような変化を、一瞬で嗅ぎ取った。
碧はぎこちなく笑おうとする。
「なんでもないよ」
あいりゃは歩み寄り、顔の高さを合わせるようにかがむ。
「目が泳いでる。脈も速い」
碧は目をそらし、肩をすくめる。
「……少し、昔のことを思い出しただけ」
その言葉の“温度”に、あいりゃの瞳がわずかに揺れる。
まるで、知らない痛みに触れたときの反応だった。
溶けたあいりゃのMAから、金属片がぽと、と落ちる音だけが響く。
あいりゃのMAは半分溶け、装甲が垂れ落ち、骨格が露出していた。
金属片が落ちる度、乾いた音が格納庫に虚しく響く。
その前で、碧はふと足を止める。
視線が、機体の裂けた胸部に吸い寄せられた瞬間——
苦しげに息を飲む。
そして、震える指先で装甲の影をなぞるように見つめながら、
誰に向けるでもない声でぽつりと絞り出す。
——まただ……こいつ(MA)を見てると、
守れなかった人の記憶が……戻ってくる。
抑えた声は、ひどく静か。
そして、その奥に沈んでいるのは “怒り” でも “悲しみ” でもなく、
もっと凍った感情—— 諦めに似た後悔。
——兄さん。
心の中で、兄の背中がゆらりと浮かび上がる。
蒸気の白に紛れて、碧の目がいつもより赤く見えた。
「碧、泣いてるの?」
「泣いてない」
崩れた金属と血の匂い。
手が届かなかった距離。
“遅かった” 自分。
それらが、壊れたMAの姿とぴたりと重なる。
碧は唇を噛み締めた。




