【第45話】海洋出現と、待機
その日の朝、基地の医務室は珍しく静かだった。
航司は簡易ベッドにもたれながら、診断を受けていた。
「悪化する前に休め。
今日の出撃任務からは外す。自宅で安静だ、いいな」
「……はい」
航司の返事は素直だが、納得はしていないようだった。
彼にとって休むことは、戦力を落とすことと同義だったからだ。
だが城真の目は珍しく厳しかった。
「無理をしたら乗れなくなるぞ」
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◆あいりゃの寄り道
澪も海千留も、強制的に休養扱いとなった。
城真の命令は絶対だ。
あいりゃはというと、基地を一時離れ、海千留の家にいた。
何もできないあいりゃを見かねて、碧が掃除をしてくれている。
玄関に立っていた碧は、あいりゃの姿を見るなり、一瞬呼吸を忘れた。
――似ている。
別人だと分かっているのに、どうしてこんなに。
胸の奥が、懐かしい痛みでひきつれる。
「……あいりゃ、さ。今日、もし暇なら……」
言いかけ、碧は自分の指先が震えていることに気づいた。
自分でも笑えるくらい、不安と期待が入り混じっている。
(違うんだ。俺は“彼女”を見てるんじゃない。
ちゃんと、目の前の人を見て――)
そう思うほどに、言葉が絡まった。
「ど、どっか行かない? 久しぶりに、外」
あいりゃが瞬きする。
「急にどうしたの?」
「別に、深い意味は……ないよ。ただ……」
そのまま碧に捕まるようにして、外へ連れ出される。
「その……一緒に、外を歩きたい。久々に遊ぼうよ、あいりゃ」
(違う。
“あの子”の代わりなんかじゃない。
なのに俺は、どうして――
どうしてあいりゃと並んで歩きたいと思うんだ)
「どっか行きたいところある?」
「ん……じゃあ、案内して」
微笑んだ。
その笑顔が“そっくりで”“違って”、碧の胸をまた苦しくさせた。
(……俺、ほんとにバカだな)
けれど断れなくてよかったと、同時に思った。
碧とあいりゃ。
ふたりだけでの外出は珍しく、自然と歩幅が少しずつ近づいていった。
昼下がりの街は、休日のざわめきに満ちていた。
ビルの影から差し込む光が、あいりゃの横顔を切り取る。
「こっち、人多いよ。平気?」
「あ、うん……大丈夫」
繁華街を抜け、公園のベンチでアイスを分け合う。
「こういうの、食べるんだな。あいりゃ」
「ゼリーよりも甘い」
小さな仕草。
スプーンの持ち方、首を傾けるクセ。
本当に細部まで似ている。
(やめろ……思い出させんな……)
胸の奥が軋むように痛む。
あいりゃがスプーンを差し出す。
「食べる?」
「あ、あぁ……」
ひと口もらった瞬間、碧の表情が一瞬だけ曇る。
(なんでだよ。“あの子”はもういないのに。
なのに今、誰を見てる?)
罪悪感が、鋭く胸を刺す。
「ねぇ、あいりゃ。海千留に会った?」
「会ったよ。安定してる」
「碧、どうしたの?」
「なにが?」
「さっきから動揺してる」
心臓が掴まれたように止まる。
「そんなこと、ないよ」
「嘘。目の動きが違う」
あいりゃは丸い瞳で、まっすぐ碧を見た。
その時、地面の下が“鳴った”。
低い振動が靴底から伝わり、公園の池の水面が不自然に波立つ。
「……嫌な揺れだな」
碧が顔を上げた瞬間——
遠く、海側の空が赤黒く光った。
ドン、と腹の底を叩くような衝撃。
次いで街全体の電光掲示板に緊急報が走る。
──“海洋の活動反応を確認。沿岸部住民は避難を”
「海が……」
遠くの海面が、黒く盛り上がる。
光が吸い込まれるような渦と、微細な振動。
次の海洋が、“のぼってくる”。
「あいりゃ……!」
「後ろに下がって」
あいりゃの瞳が、静かに冷える音さえ聞こえそうだった。
風景の奥で、海面が裂ける。
塔のような触腕がゆっくり立ち上がった。
「また……出た……」
碧の声が震える。
その前にあいりゃが踏み込む。
素手のまま、迫る触腕へ跳んだ。
振り下ろされた一撃は、街灯をまとめて圧し折るほどだったが——
衝突の瞬間、金属音にも似た衝撃が辺りを裂いた。
あいりゃの拳が、イカ型の硬化触腕を“弾く”。
「お前…なんだよそれ」
「っ……硬すぎ……!」
海洋体は後退しない。
わずかに姿勢を揺らしただけで、再び触腕を振り上げてくる。
「コアはどこ…? 眼が…ない」
海洋は攻撃を続ける。
「碧、こっち!」
あいりゃはすっと立ち上がり、碧の腕を掴む。
そのまま跳躍して、ビルの屋上へ避難させた。
「ここにいて!」
「お前……どこ行くんだよ!」
「私が行かなきゃ!」
「待てって! あんなのとどう戦うんだよ!」
「私は戦えるの!」
「海洋がすぐそこにいるんだぞ!」
碧はあいりゃの腕を離さない。
「私には倒せる。私は、兵器だから」
その声だけが、涙が出るほど“違って”いた。
似ているけど、別人。
「碧を守る」
それがようやく実感として胸に刺さった。
(……ああ。俺、やっと分かった)
碧は震える声で言った。
「……頼む。俺の前で……消えないでくれよ」
あいりゃは一瞬だけ驚き、そして碧の手を引いた。
「大丈夫。わたしは、わたしだから」
その直後、海洋の“深紅の眼”が空に向けて開いた。
触腕の一つが、硬化した塔のように迫ってくる。
地面を踏みしめる振動が骨まで響く。
あいりゃは瞬時に判断し、掌から微弱な放射干渉を放ち、触腕に強烈な一撃を叩き込む。
「――っ!」
衝撃波が触腕を叩き、黒く硬化した構造体が音を立てて崩れる。
海洋の中心部の眼が揺れ、光が一瞬途切れ、視界の歪みがわずかに収まった。
碧はその隙を見て息をつく。
「す、すげ……何が起きて…!」
その背中は赤い光に照らされ、圧倒的な戦意をまとっていた。
あいりゃは振り返らず、碧の手を引いてさらに前へ進む。
碧は震えと安堵、複雑な感情を同時に抱えた。
深紅の眼が再び二人を狙う。
しかし、あいりゃの一撃で海洋の攻撃は一瞬の隙を見せた。
「一旦引いて、軍に行く。ここはもう安全じゃない」
「……分かった。ついてく」
碧の声は震えながらも、妙にしっかりしていた。
◆基地。
碧はあいりゃの腕を握りながら、慌ただしい足音に追われて格納庫に入る。赤い警告灯がちらつき、機体整備士たちが指示を飛ばす中、あいりゃの瞳は冷静そのものだった。
「ここ……すごい……」
碧の声は震えていたが、あいりゃは微笑まなかった。ただ、機体を見据える。
格納庫内の足音が近づき、整備士が最後のチェックを終える。
「澪、カノープスの発進準備、急がせるぞ」
「航司は……?」
「行かせない。無理をすれば次は本当に動けなくなる」
城真の判断は冷たく、しかし正しかった。
航司がいないブリーフィングルームには、どこか薄い影がかかったように感じられた。
「私、先に行く!」
澪がMAへと走り出す。
その瞬間、海側のスクリーンが異様な光に染まる。
海面が赤黒く“裏返る”。
塔が次々と立ち上がり、周囲を包囲していく。
「深紅の圧壊領域……!」
「澪、急げ! 海洋が完全に出現する!」
緊迫が基地全体を締め上げる。
航司の不在は、全員が痛いほど感じていた。
「No.101、到着しました」
城間「あいりゃ、お前が一発入れたあいつは、アビス・クレイドル。
眼の奥にあるコアをやらないと沈黙しない」
あいりゃは頷くと、碧の手を軽く握り返し、力強く頷いた。
「……気をつけて」
碧の声には、祈るような緊張が混ざる。
静かにコクピットに乗り込み、ハッチが閉じる音が響く。周囲の空気がさらに引き締まった。
同時に、もう一つのMAが動く。
澪のMAも格納庫の奥から姿を現し、光を反射する装甲が赤く揺れる。
「遅いんだけど、101」
「アビス・クレイドルに出会した」
「あいつとも顔見知りって事ね。」
「二人とも、準備はいいか?」
城真の声が通信越しに響く。
あいりゃはうなずき、操縦系統を握る手に力を込めた。
澪も眉をひそめ、足元のペダルに体重をかける。
空気が振動し、格納庫の金属床が微かに軋む。二人の呼吸がスクリーンに映る自分の手元に集中する。
「Sacred Sea、起動!」
二つのMAが海上に揃い、荒れる波間で並ぶその姿——
まるで運命が交錯した瞬間のように、海洋体との戦いの前哨戦が静かに幕を開けた。




