【第4話】錆びた楽園の片隅で
一方、地下の実験セクターでは、他の研究員たちが処分予定の動物を運んでいた。
無表情に、感情のない顔で。
だがある若手研究員が、運ばれていく動物たちの死体を見て、小さく息を呑む。
「お前……こんなこと、いつまで続ける?」
「この戦争に勝つまでだ。それ以外に、選べる道なんてあるのか?」
「……俺の妹は、海で焼けた。民間避難艦だったのに。
敵も味方も、誤爆だと言ったけどな……
何が“再生”だよ。全部、焼き尽くしてるくせに」
そして、その地下の奥で。
No.101――airyaは、闇の中でぼんやりと。
薄暗い非常用通路、管制系統のわずかな光が、毛並みに淡く反射する。
記憶。痛み。電波。 さまざまなものが、彼女の中に交差していた。
――ここではない。
――まだ、何も知らない。
――でも、知ってはいけない気がする。
彼女の知性は進化し続けている。
やがて、それは“自由”を求めるための理論に変わっていく。
空調の異常値ログだけが、唯一の“異物”を告げている。
その時、地下通路に警備ドローンの光が差し込んだ。
地上では、「残された海をめぐる」“戦争”が加速していた。
湾岸都市の3つが今朝未明に水没し、
敵か味方かも定かでない無人機の誤爆によって、港の貯蔵タンクが全焼。
それは旧国家軍事圏による、「新国家軍事圏」に向けての報復だった。
報道官は「新国家軍事圏の防衛は万全」と繰り返していたが、防衛という名の元に行われる兵器使用が、かつて自然に溢れていた大地を蝕んでいることは、誰の目から見ても明らかだった。
海辺では“高濃度放射線“を含んだ波が、美しい砂浜を汚している。
「新国家軍事圏」戦略局の最上階。
ワインのボトルがテーブルに倒れ、血のように赤い液体がじわじわと染み広がる。
「君、今夜もやけに手際がいいね……今日は疲れてるんじゃなかった?」
「今日は早く眠りたいのよ」
疲れた表情で、壁にもたれかかるのは橘主任研究官。
男――鳴海局長はシャツのボタンを留めながら笑う。
「疲れてるときこそ、感度がいいんだろ?…実験体も、女も」
「……最低。でも好きよ、そういうとこ」
「実験隊の様子はどうだ?」
「順調よ」
互いに心などない。
快楽と恐怖と、生存本能が“絆”の代わりになる場所。
それが、この新国家軍事圏だった。
同時刻、地下の実験セクターでは、現場スタッフたちが淡々と動物の死体処理を行っている。
腐臭の中、黙々とホースを握る若い男が、小さくつぶやいた。
「……この猫は処分リストにはないな」
「そっちはまだ進行中だ。 俺たちが集めた“この子たち”は、どれも明日には無に還る」
「なんか目が合った気がして」
その猫――No.101は、既に死んだフリをした状態で、冷却トレイの中に身を潜めていた。
身体中の感覚が、遺伝子操作によって異常に鋭敏化している。
彼女の「選択」は、ただの本能ではなく、“学習と模倣”の末に生まれたものだった。
その時、扉が開いた。
「投薬を行う時間だ。許可のない者は出ろ」
「――No.101、投与率、臨界寸前です」
研究主任の橘が告げると、背後で冷却室のアラームが短く鳴った。
液体窒素に似た音を立てて、新たな試料が培養カプセルへと注入される。
「予定より三日早いが、構わん。上層は“次”を急いでいる」
神崎の声は淡々としていた。
海の戦争は予想以上に長引き、旧国家軍事圏の「搭乗型兵器(MA)」との限定戦争も膠着状態。
新国家の「切り札」が、早期に実用段階へ入ることを、上層は何より求めていた。
被検体No.101は、小さな猫の姿をしていたが、
神経組織の再構築率は人間のそれを超えていた。
苦痛の中で学び、記憶し、組み換えられた感覚の中で、“何か”を取り戻しつつあった。
冷却拘束のベッドで、脳内へ直接刺激信号が注入されるたび、視界が千切れる。
何度も心停止寸前まで追い詰められ、蘇生処置を受ける日々。
それでも、No.101は「鳴かなかった」。 恐怖はすでに通過した。
残っているのは、形のない問いだけだった。
「なぜ、“わたし”は、ここにいる?」
神崎は、そんなNo.101に強い執着を見せていた。
実験の成果として、あるいは「完成された器」として、愛着にも似た欲望を滲ませる。
そしてその夜、**本来なら翌週に予定されていた“第5次改変”**が、上層命令によって強行された。
適応値が臨界を越えた瞬間、No.101の中で、何かが“外れた”。
――視界のフレームが歪み、世界が静止した。
五感の全てが拡張され、空調の流れ、端末の信号、周囲の心拍が「音」として脳内に流れ込む。 恐怖ではない。これは、進化だ。
突如としてセキュリティフロアの冷却炉が誤作動を起こす。
フロア全体が非常冷却モードに入り、通常の電磁ロックが一時的に解除される。
「なんだ? 非常冷却モードを止めろ!」
「非常冷却モードをオフ!非常冷却モードをオフに・・・そ、そんな・・・止まりません!」
「なにが起きている!」
「制御プログラムがロックされています!」
「この警報はなんだ? 敵か?」
「放射線量は感知されていません! 共鳴はゼロ!」
天井に設置された高感度モニターが、低く警告音を鳴らしていた。
誰もそれを重要とは思わなかった。 その警報はしばしば、**「脳波のノイズ」**として処理される。
しかし── その夜、“ノイズ”は急激に変化した。
「第101生体、デルタ波が異常上昇……
感情野の活動域、上昇……っ、待って!これ……!」
女性研究員の指が震える。
警報アラームが鳴り響く中、
被検体No.101を抑えつけている拘束ベッドの鉄格子に、ヒビが入って割れた。
操作パネルの表示が次々と“異常”の赤に染まり、
モニターの中で、 小さな黒猫の姿をした実験体が、のろりと起き上がった。
目が合った。
ガラス越しでも、背筋が凍る。 その目に宿ったのは──「怒り」だった。
「なに、これ……」
No.101は、拘束ベッドのわずかな緩みに肉体を捻じ込んで脱出。
「局長!! No.101が!」
「なに!?」
轟音。
強化ガラスが内側から砕ける音に、施設の空気が一瞬で変わった。
神崎の動きよりも先に、No.101は姿を消した。
続けざまに警報が赤く点滅し、複数の端末が同時に悲鳴を上げる。
「No.101が逃走!No.101が逃走しましたァァッ!!」
「実験棟G-17、警備ドローン壊滅!セキュリティドア、反応なし!誰か止めろッ!!」
「No.101が逃走!No.101が逃走しました!生体反応、研究ブロックG-17を通過中!」
「追跡ドローン反応せず!内部センサー、反応ゼロです……!」
「待って、なんでこんな経路を――!?ロックが開いてる!?」
地下モニター室にいた若手オペレーターが叫ぶ。
滑るような動き。 それは獣ではなかった。
既に“兵器”として進化していた。
小さな四肢に疾走用筋繊維を移植され、骨格には自己修復ナノ素子が埋め込まれている。
その身は“脱走”に最適化されてなどいない。
だが──彼女は、「走り方」を知っていた。
「管制へ!生体No.101が……ブロックDを突破!
通路封鎖失敗……!」
最上階。
若い兵士が息を切らしながら、報告する。
「No.101が...逃走しました」
──「No.101、脱走」
その報せは、管制室の空気を瞬時に変えた。
上層部の誰もが「それはあり得ない」と言い切った。
No.101は“管理された存在”であり、選択する自由など持ち得ないはずだった。
しかし、その夜だけは違った。
No.101は、自らの意思で「檻」から逃げ出したのだ。
管制室が騒然となる。
上層の研究幹部たちは一瞬、信じられないという表情を浮かべたが、
幹部 郷田の目だけが、静かに冷えていた。
「あれは“試験動物”ではない。兵器だ。
......どんな手を使っても、回収しろ」
部屋の外では、警備兵たちが慌ただしく武装を整え、
地下施設の緊急封鎖システムが作動している。
ブチッ──!
警報が鳴るよりも早く、研究ブロックG-17で爆発的な破壊音が鳴り響いた。
「施設内に放射線が──!臨界反応!?いや、これは……!」
「警備チーム、即応ッ!対象は“核融合触媒組織”を有している!近距離戦は禁止だ!!」
「外骨格装備班、展開ッ!!
殺すな、捕獲しろ、撃つな、殺すな、殺すなッ!!」
指令が叫ばれたと同時に、自動小銃を構えた武装兵たちが施設の通路に殺到する。
しかし──音もなく、ひとり、またひとりと消えていく。
「ッ!いたぞ、左高架──」その声が最後だった。
次の瞬間、天井を蹴り崩して現れた黒い影が、兵士の喉元へ飛び込んだ。
ズシャッッッ!!
咆哮はない。 だが、音速を超えた筋肉繊維の駆動音が耳を裂く。
「目視接触──異常接近、対象が……!?」
兵士の一人がカメラを通じて叫ぶが、その映像も瞬時に赤黒く染まる。
「バイタル全滅。制圧班A、全員死亡」
「……あれは……何だ……?」
同時刻、上層フロアでは橘研究主任が、
冷えたワインを口にしながら、次なる人型実験体について語っていた。
「No.102の脳組織は、まだ未成熟……
でも、あの子が完成すれば、私たちは一歩前進する」
「君の研究は美しい。実に、徹底的に……非人道的だ」
「だからこそ、人間を超えるのよ」
その皮肉めいた会話の裏で、 人間ではない“何か”が、確かに人間を超えようとしていた。
貨物エリア。研究廊下。医療隔離フロア――
No.101は脳内で作られたルートマップを元に、走る。
傷口から流れる体液に染まりながらも、
No.101の目は、初めて見る夜の“空”を目指して。
身体中から血を流しながら、夜の施設の壁をよじ登っていた。
鋭くなった視界の先に、“海”が広がる。
その一瞬、追跡ドローンの光が彼女を捉える。
──撃て。
だが引き金を引くよりも早く、
あいりゃは鉄格子の隙間をすり抜け、 真夜中の空気へと消えた。
神経組織はすでに改変されており、視覚は熱源を感知し、聴覚は電磁信号を嗅ぎ分ける。
背後では、施設が赤く染まっていく。
銃声、悲鳴、怒声。
数百年の研究。
何千の犠牲。
そして、唯一成功した“兵器”。
首輪に刻まれた"No.101 airya"にという文字。
海から吹く風が、"airya"の血を乾かしていく。 だが彼女は止まらない。
まだ、 思い出していない。 自分がなぜ、こんな形で生まれたのかを。
そして脱出口の扉が、暗い外気を孕んで音を立てて開いた。
――No.101、脱出。