【第37話】ブルー・アビス襲撃失敗と喪失
海面の爆光はすでに消えている。蒼黒い水柱だけが残り、夜明け前の海を無慈悲に裂いていた。
避難所の高い天井に、鉄骨を震わせるような低い振動が伝わった。
吊り下げられたモニターだけが、静まり返った空間に青い光を落としている。
あいりゃは、ただその前に立ち尽くしていた。
モニターの中では、
──海が裂け、青白い腐食海流が渦を巻き、
──前衛MAが光の筋となって散る。
画面の向こうで起きている惨状に、涙も出ない。
なに一つ実感できないまま、胸の奥だけが重く沈んでいく。
「……あれ、全部……」
喉の奥まで出かかった言葉は、そのまま霧散した。
戦うべきなのに、戦わなかった。
自分が乗る前提で作られた作戦が、崩れていくのをただ見ていた。
何もできず、ただ画面を見つめる時間は、永遠にも感じられた。
やがてサイレンが一度だけ低く鳴り、館内アナウンスが流れる。
「──避難区域の警戒レベルを引き下げます。段階的に帰宅が可能です」
ざわ…と避難民が動き始める。
あいりゃだけが、まだ椅子に座ったまま、力なく膝の上で指を組んでいた。
そこへ、慌ただしい足音が迫ってくる。
「……あいりゃ!」
振り返ると、呼吸を切らし、汗ばみ、少し髪を乱した碧が立っていた。
碧は安堵したように短く息を吐く。
「良かった……無事だったんだな。
……避難、きつかったろ?」
あいりゃは、ゆっくり顔を上げる。
碧の声はいつも通り優しいのに、
胸の奥で何かがひび割れるように痛んだ。
「戦場、パイロットが……」
あいりゃの唇が震えた。
何かを言おうとして、何も言えず、ただ俯く。
頭の中では何度もモニターの映像が反芻される。
――“私が乗れば、助かった?”
――“でも、また殺すかもしれない……”
碧は一瞬だけ言葉を失う。
だがすぐに、あいりゃが崩れないよう、そっと肩に手を置いた。
「今は、帰ろう」
碧はあいりゃの腕をそっと引き、出口へ向かう。
あいりゃは抵抗なく立ち上がり、
心の抜け殻のまま、ふらりと歩き出す。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
避難所の外の空気は、まだ少し焦げた匂いがした。
遠くには、煙と蒼光の名残が薄く揺れている。
ただ――
歩くたびに“誰も救えなかった自分”という影が、
静かに背中に貼りつくだけだった。
家に着いたのは、夕焼けが沈みきった後だった。
玄関の灯りをつける音が、やけに大きく響く。
靴を脱ぐ動作さえ、あいりゃはどこか“誰かの真似”をしているような感覚だった。
碧は靴を揃えたあいりゃの横顔を見つめ、
その沈黙の意味を探るように、小さく息をついた。
「……あいりゃ、まずは水でも飲めよ。落ち着くから」
「大丈夫。いらない」
「飲めって。ほら」
促されてキッチンの椅子に座る。
渡されたコップの水に指先を触れると、冷たさだけが妙にはっきりした。
数秒、無言。
碧が向かいに腰を下ろす。
テーブルの上には水の入ったコップが二つ。
その境界が、ふたりの距離をそのまま表していた。
「……今日は、つらかったな」
あいりゃは答えない。
テーブルを見つめたまま、ゆっくり息を吸う。
「碧……」
「ん?」
「私……どうしたら、よかったの……?」
碧の視線が揺れる。
問いの意味をすぐには掴めない。
それくらいあいりゃの声は弱く、迷子みたいだった。
「みんな、戦ってる。
わたしだけ、ここにいて……」
言葉はそこから続かなかった。
ただ、モニターで見た青い光景が脳裏で繰り返しているだけだった。
碧はしばらく黙った後、
テーブルの上で、そっと自分の手のひらを広げた。
「今は考えるな」
あいりゃの睫毛が微かに揺れる。
「お前は今日、生きて帰ってきた。
それで十分だよ。
……本当に十分だ」
その言葉で、あいりゃの胸の奥がきしむ。
その“痛み”だけが、今日初めて自分のものだと感じた。
「碧……」
名前を呼んだ声は、ひどく弱かった。
呼吸の仕方を忘れかけた生き物のように。
碧はゆっくりと椅子を引いて立ち上がる。
「……今日は、もう考えなくていい。
まずは寝ろ。疲れてる」
あいりゃは顔を上げ、ただ見つめる。
質問も反論もしない。
碧は続けて、あいりゃの頭にそっと手を置く――
その一瞬だけ温度が伝わる。
「……帰ってきてくれて、ありがとな」
その言葉は、胸に深く沈んでいった。
部屋に戻ったあいりゃは、ベッドの端に腰を下ろした。
灯りもつけず、暗い中でぼんやりと自分の両手を見る。
そこへ。
──ドン、ドン、ドンッ!!
玄関が拳で叩きつけられる音が、静寂を裂いた。
碧が驚いて振り返る。
「……誰だよ、こんな時間に」
碧が玄関に向かい、慎重に扉を開ける。
扉の向こうには、軍服の男が三名。
肩章には深層実験庁の紋章。
表情は硬く、配慮の欠片もなかった。
先頭の男が無表情のまま告げる。
「airya二等従属官、至急、基地まで同行願う」
碧が一歩前に出る。
「……今日は無理です。明日じゃダメですか」
「許可できない」
「あいりゃは避難所から帰ったばかりで、疲弊してる。
……今は休ませてやってくれ」
軍人は碧を一瞥し、冷たく言い放った。
「判断するのは君ではない。
彼女は“兵器指定特区登録者”だ。
使用可否は上層が決める」
その物言いに、碧の表情が険しくなる。
「ふざけるなよ……あいりゃは人間だぞ。
こんな状態で連れ出したら、壊れるに決まって――」
「彼女は“兵器指定特区登録者”だ。聞こえなかったか?」
男の声は氷のように乾いていた。
「“閃光”の性能は、戦況の優先順位に従う。本人の意志は不要だ」
その瞬間、あいりゃの心臓が強く跳ねた。
自分の呼称――
自分の役割――
自分が“何者として扱われているか”。
逃げるように閉ざしていた現実が、
玄関の隙間から無理やり流れ込んでくる。
碧は半歩後ろにいるあいりゃをかばうように手を伸ばし、振り返った。
「……聞くな。気にするな。
出なくていい。俺が――」
けれど、
碧が言い切る前に軍の男が一歩踏み込む。
「No.101。airya二等従属官。
“指令No.44-Ω”
──これは、召集命令だ」
命令、という言葉が、あいりゃの全身を硬直させた。
脳の奥が凍りつき、指先の震えが止まらなくなる。
碧が怒りを抑えきれず声を荒げる。
「今のあいりゃが戦えるわけねえだろ!!
なんで、こんな時に――!」
「彼女がいなければ前線は崩壊したままだ。それだけのことだ」
淡々とした声。
戦場の損耗も、命も、痛みも、
すべて“数字”としてしか扱わない声だった。
あいりゃはゆっくりと立ち上がった。
碧が腕を掴む。
「……行かなくていい。無視しろ」
けれどあいりゃは、小さく首を振った。
「……行くよ」
その声は、感情をこそぎ取ったように乾いていた。
「行くな……!」
碧が必死に訴える。
あいりゃは笑わない。泣かない。
ただ、淡く視線を落として言う。
「……行かないと……もっと、誰か……」
言葉はそこで途切れた。
軍人は無感情に頷く。
「同行を確認」
碧が軍人の前に立ち塞がる。
「……ふざけんなよ。こんなやり方、絶対間違ってる」
「ガキは黙っていろ」
「あいりゃは……お前らの道具じゃない!」
しかし軍人は一切動じず、
「道具ではない。“兵器”だ。
登録番号:101。AIRYA」
その瞬間、碧の拳が震えた。
そして――
あいりゃは碧の肩にそっと手を置いた。
「碧。大丈夫。行ってくるから」
その顔は、
生きているというより、
ただ“動いているだけ”の機械のようだった。
碧は何も言えなくなり、
ただあいりゃの手を放すしかなかった。
軍人たちは形式的に礼をとり、
あいりゃの左右に立つ。
外の夜風が、開いたドアの隙間から冷たく吹き込んだ。
あいりゃは一度だけ碧を振り返る。
碧は言葉を失ったまま、拳を握りしめていた。




