【第34話】ひとりの、少女
海千留と暮らした家の鍵は、あの日から一度も触れられていなかった。
玄関の扉を押し開けると、閉め切られた空気がゆっくりと流れ出してくる。
湿った木の匂いと、うっすら積もった埃。
――時間だけが取り残された空間。
壁の色も、靴の並びも、戸棚の小さな傷も、すべて“あの日のまま”なのに。
そこにいるはずの人だけが、消えていた。
あいりゃは、着ていた制服を脱ぎ捨てた。
軍から支給された制服には重々しい桜の紋章が付いている。
――わたしは、どこに立っているんだろう。
どちらも、自分のものじゃない。
膝が抜け、そのまま床に座り込んだ。
指先が震えて、言葉がこぼれる。
「わたし……何にもなれない……」
そのとき、玄関で戸が鳴った。
「おーい……開いてる?」
慎重な声。碧だった。
碧は一瞬だけ眉をひそめる。でも、それ以上は言わず、部屋をぐるりと見渡した。
「……なんか、息できてない顔してんぞ」
「べつに……」
「嘘つけ。わかるよ。海千留も、よくそうだったし」
その“名前”に、胸が揺れた。
碧は気まずそうに後頭部をかく。
「何しにきたの」
「用がなきゃ来ちゃいけないのかよ」
「女の子の部屋に用もなく来るの?」
「えっと……。
その...あいりゃが帰ってくるのが見えたから」
「それで?」
「飯、食った?」
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碧は慣れた手つきで野菜を刻み、鍋に火をかけている。
あいりゃはダイニングの椅子に座り、何をしていいのか分からず手を膝の上で固く組んでいた。
「実は料理得意なんだよな」
「……料理?」
恐る恐る尋ねると、碧は振り向かずに鼻で笑った。
「海千留が不器用だったから、俺が全部やらされてたんだよ。慣れた」
「そう、なんだ……」
“海千留”という名前が出るたびに胸がざわつく。
理由は分からない。
「座ってろ。すぐできるから」
数分後。
机に温かい湯気が立ち上がり、碧特製の具だくさん味噌汁と、焼いた魚と、炊きたてのご飯が並んだ。
湯気の匂いが、胸の奥をじんと温めた。
「……すごい」
「ふつうのやつだよ。落ち込んでるやつには、こういうのが一番効く」
あいりゃの箸はぎこちなかった。
味噌汁を一口飲んで、瞳を瞬かせる。
「……これ、すごく……あたたかい」
「温度の話?」
「ちがう。感覚が……なんて言えば……」
碧はふと手を止め、少しだけ優しく笑った。
「美味い?」
「おいしい」
海千留もいつも
私に、「美味しい?」と言って聞いてきた。
嬉しそうにあいりゃを見つめる、海千留の優しい笑顔が浮かぶ。
「美味しいかどうかを確かめるのは、人間の儀式なの?」
「そう。これは儀式だ。飯をもらったら、毎回伝えなきゃならない」
あいりゃはしばらく黙って食べ続けた。
「……顔、さっきよりはマシになったな」
あいりゃは箸を置きながら突然言った。
「ねえ、碧。……MAって知ってる?」
「知ってるよ。旧国家軍事圏の……あれ、でかいロボだろ?」
碧は答えながら、ほんの一瞬だけ視線をそらした。
箸の動きも、不自然に止まる。
(――なんで、こいつの口からその名前が出てくるんだよ)
言いながら眉をひそめる。
あいりゃは視線を落とす。
「私、あれに乗れって言われてる」
「は?」
碧の箸が止まった。
「でも、乗らないって答えたの」
胸の奥に、古い痛みがじくりとにじむ。
かつて自分が“乗れなかったもの”。そして兄が愛していた場所。
幼い記憶が呼び起こされ、今も意図的に距離を置き続けている存在。
――目の前の、小柄な少女の口からその言葉が出た。
しかも「乗れ」と言われている、と。
碧はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「どうしてあいりゃが乗るの?」
碧の声はかすかに掠れていた。
驚き……じゃない。
“困惑を押し殺している”声だ。
「わからない」
(どうして、俺が避けてきたものを……こいつが背負わされている?)
握っていた箸が、かすかに震える。
それを悟られないよう、碧はゆっくり息を吐いた。
「でも、乗らないって答えた。
私なんかに……そんな資格、ない」
(資格とか……そういう問題じゃねぇよ。
あれに乗るってのは……そんな軽いもんじゃないんだ)
けれど、碧はそれを言葉にしない。
言えば、自分の過去を見せることになる。
あのときの惨めさも、悔しさも、全部。
だから、淡々とした声を装った。
「——乗りたくないなら、乗らなくていい」
声音は静かだったが、かすかに熱がにじんでいる。
あいりゃはそれに気づいていない。
「……うん」
碧は黙ってあいりゃを見つめる。
目の前にいるのは、海千留にそっくりな、一人の女の子だった。
(あいりゃに……あれを背負わせたくない)
その想いは、彼の胸の奥で密かに燃えていた。
「あいりゃは……俺から見れば、 ‘ちゃんと悩める人間’ だよ」
「私、そう見える?」
「見えるよ。当たり前だろ」
「今こうして飯食って、落ち込んで、悩んで……俺と同じだ」
その一言が、あいりゃの奥底に届く。
碧は静かに言う。
「迷ってるなら、それでいい。
決めるのは……あいりゃだ」




