【第31話】第13型MA《ファフナー・スレイヴ》
──金属の軋む音が、冷たい格納庫の奥に響いた。
巨大なMAが、深海から引き上げられた直後の姿のまま、分解もされず、格納台に固定されていた。
塩と血と焼けたオイルの臭いが、まだ機体に染みついている。
そのコックピットハッチが、ようやく自動解錠された。
冷却ガスが白い靄となって吹き出す。
中から運び出されたのは、二人のパイロット。
ひとりは、涼。
激しいGに晒され、出血しながらも、命をつないでいた。
そしてもうひとり──涼の妹であり、同じ部隊に所属していたMAパイロット、大津 凪咲。
凪咲の身体は、小さかった。
同世代の女性よりさらに細く、どこかガラス細工のように脆く見える。
「……血圧は安定してる。外傷もない。ただ、意識レベルが……」
医療班の報告に、格納庫の隅に立つ男がゆっくりと頷いた。
潮田潤──。
その男が、運ばれる凪咲の姿に数秒、無言で目を落とした。
「……よく、帰ってきたな」
小さく呟いたその声は、彼女に届くことはなかった。
だがその語調には、安堵と痛みが滲んでいた。
彼にとって、大津凪咲は“ただの部下”ではなかった。
直属の後輩であり、唯一自分を「先輩」と呼び続けた女の子だった。
冷たくなる手を、訓練のたびに強く握り返してくる彼女を、潮田はいつしか“妹のように”感じていた。
だからこそ──今の彼女の状態が、口に出せないほど辛かった。
「意識の回復には、時間がかかるかもしれません」
医師の報告に、潮田は短く礼を述べるだけで、何も言わなかった。
彼の視線は次に、ベッドに横たわるもうひとりの生還者──涼へと向いた。
涼は、まだ覚醒していない。
だが、脳の活動はゆるやかに回復しており、まもなく意識が戻るだろうと診断されていた。
「まったく……妹のほうが先に回復するかと思ったんだがな」
ぽつりと潮田が言ったその声に、思わず涼の指がピクリと動く。
(……今、何か……聞こえたような……)
混濁する意識の中、ぼんやりとした光の粒が、頭の奥に浮かぶ。
爆発の轟音、漂う硝煙、そして──敵の顔。
あの、“耳のある少女”。
彼女が、こちらに銃口を向けながら、何かを言った。
──逃げて。
その言葉だけが、ずっと頭の奥にこびりついている。
(どうして……撃たなかった?)
敵の正体も、目的も、自分との関係もわからない。
だが明らかに、彼女は“迷っていた”。
そして、殺すことを選ばなかった。
「……涼。起きてくれ。お前の妹は、今は安定してる。……だが──」
潮田は言いかけて、言葉を切った。
「……いや、なんでもない」
涼にはまだ、その言葉を告げられない。
涼の目が開いたとき、まず知らせるべきは、妹が生きているという事実だけでいい。
その先の“現実”は──まだ、彼が受け止める準備ができたときでいい。
潮田は、凪咲の傍らに歩み寄り、ベッドの縁にそっと手を添えた。
彼女の頬にかかった髪を、無言で一筋、払う。
(……乗るなと言っただろう。お前はまだ、あんな機体に……)
けれど彼女は、乗った。
理由はわかっている。
兄を守るため、涼を追いかけるため。
その覚悟は、誰よりも潮田が知っていた。
だからこそ──なおさら、胸が痛かった。
凪咲の呼吸器が、小さな音を立てて作動している。
それが、この戦場において唯一、“生きている”ことを実感させてくれる音だった。
過去回想:
焼けた空は、いつも赤かった。
それは太陽のせいではない。
街を覆う煤煙と、溶けた鉄と瓦礫が照り返す、終わった文明の残光だった。
爆撃の跡が残る通りを、少年と少女が歩いていた。
瓦礫の間を縫うように進む彼らの足音が、濡れたコンクリートに吸い込まれていく。
「兄ちゃん、いた……! ミカンの缶詰……!」
小さな声が、崩れかけた商店の奥から響く。
少女──凪咲は、嬉しそうに泥だらけの缶詰を抱えて走ってきた。
手は傷だらけだったが、顔だけはくしゃっと笑っている。
「おい、勝手に中に入るなって言っただろ……。また崩れたらどうするんだ」
兄の涼は、険しい顔を向けるが、その声には怒りよりも不安がにじんでいた。
凪咲は、へらっと笑って、缶詰を差し出す。
「だって、お兄ちゃん最近元気ないし。
甘いの食べたら、ちょっとはマシになるかなーって思って」
涼はそれを受け取ると、わずかに目を伏せた。
「……バカ」
彼の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
それが、旧国家の暮らしだった。
崩れかけた学校、雨漏りする病院、瓦礫でできた遊び場。
食料も、薬も、燃料も限られていた。
だが、人々はそれを「分け合う」ことを忘れなかった。
母はいつも言っていた。
「この国が残したのは、“制度”じゃない。“人”よ。
誰も切り捨てないって、あんたたちの父さんが信じたんだから──今度は、私たちが信じる番よ」
その“信じる”という言葉が、崩れ始めたのは数年後。
新国家の偵察ドローンが空を覆い始めた頃、街の通信は不定期に遮断され、物資の補給も途絶えた。
『基準に満たない区域の生産性を確認。再建性:低。
当該区域を非生産指定区域として登録、支援対象から除外』
──それが、宣告だった。
街は静かに、しかし確実に、見捨てられていった。
避難要請は届かず、国際機関のルートは全て凍結された。
新国家は「地表除染作戦」を敢行し、その放射線は風に乗って街を襲った。
母が最初に倒れた。
血を吐くようになり、咳が止まらなくなった。
病院は閉鎖され、抗生物質すら手に入らなかった。
あの夜、涼は泣きながら叫んでいた。
「誰か助けてくれって、ずっと言ってたのに、誰も来ない!」
壊れたラジオを抱きしめて、受信できないノイズの中で。
母は、そんな涼の頭を黙って撫でていた。
そして、ただ一言だけ残した。
「……生きていてくれて、ありがとう」
それが、最後の言葉だった。
数日後──
涼は、母の冷たい身体に凪咲を抱かせたまま、自分の脚を自分で立たせた。
もう、誰も来ないのなら、自分が変わるしかない。
凪咲を守るために。
旧国家が密かに再建していた“決戦兵器”計画に、涼は志願した。
若年枠の適性テストで最も低い評価だったにも関わらず、
彼は、試作型MAのコックピットに座ることを選んだ。
「新国家のように、核に頼らず、誰も切り捨てず、俺たちは生き延びる」
それが、涼の戦う理由だった。
妹に、もうあんな想いをさせたくない。
そして、自分と同じように「選ばれなかった者たち」の痛みが、
戦場で無意味にならないように。
だから、彼はMAに乗る。
そして、笑いながら都市を燃やす“敵”を、絶対に許さない。
凪咲もまた、兄と同じ道を選んだ。
潮田の部隊に入り、兄に追いつくため、無理を重ねた。
それでも彼女は、決して弱音を吐かなかった。
あの時──潮田は気付いていた。
彼女の身体が限界を超えていたことも、神経負荷に悲鳴を上げていたことも。
でも、止められなかった。
彼女もまた、守られるだけの存在ではなく、誰かを守る側になろうとしていたのだ。
そして今、その代償が、彼女の身体に残ってしまった。
涼は、ベッドの中でゆっくりと目を開けた。
天井の白が、やけに遠く感じる。
隣のベッドでは、凪咲が静かに眠っている。
顔色は悪くない。呼吸も安定している。
だが、その姿を見て、涼は本能的に悟った。
(……凪咲はもう、目覚めないかもしれない)
指先が震える。
まだ、彼女は目を覚ましていない。
だが──何かが終わってしまった気がした。
そして、それでも。
涼は、戦わなければならない。
病室は静かだった。
電子機器の微かな音と、凪咲の呼吸音だけが、密やかに空気を揺らしている。
涼は椅子に座ったまま、妹の寝顔を見つめていた。
もう何時間、こうしているだろう。
時折、看護師が点滴を替えに来るが、涼はほとんど口を開かなかった。
数日後。
──その報告は、潮田から受けた。
基地内の医療室。
涼はまだ車椅子のままだったが、潮田はわざわざ自ら報告に来た。
「凪咲は……意識は安定している。命に別状はない」
潮田はそう言った。
ただし、目を伏せたまま。
その一瞬の間を、涼は見逃さなかった。
「だが?」
潮田は沈黙する。
彼の中で、言葉が何かを押しとどめていた。
涼は苛立ちを込めて問い詰めた。
「乗れないんだろ。──もう、MAには」
潮田は、しばらく黙ったあと、小さくうなずいた。
「神経リンクの損傷が大きすぎる。ドクターは“再適性ゼロ”と診断した」
沈黙が落ちた。
涼は拳を握り、爪が掌に食い込むのも構わず、じっと一点を見つめていた。
「……なんで、助けたんだ」
低い声だった。怒りとも、悲しみともつかない。
潮田は視線を逸らさず、静かに答えた。
「俺の部下だったからだ。迷う理由なんてない」
「だったら、どうして今まで黙ってた」
「言えなかった。……いや、言いたくなかったんだ」
その一言に、涼は目を見開いた。
潮田は軍服の袖を強く握り、顔を曇らせる。
「凪咲は、いい兵士だった。いい後輩だった。
……俺にとっては、妹みたいな存在だった。
だから、どうしても……最後まで、希望を持ちたかった」
涼は口を開けずにいた。
潮田は、淡々と話すその声の裏に、深い痛みを隠していた。
彼は本気で凪咲を思っていた。
それが涼にとって、唯一の救いだった。
──だが、心の底から湧いてくる感情は、それだけではなかった。
「あの日、敵のパイロットに撃たれそうになった。
でも──撃たれなかった。見逃されたんだ」
涼の声が震える。
「“逃げて”って……言われたんだ。
意味がわからなかった。……なんで敵が、俺を逃がすんだよ」
潮田は黙って聞いていた。
「俺はあいつらを許さない。母さんを、家を、あの街を……
凪咲まで、全部奪った“あいつら”を……!」
でも──でも、どうして、そんな奴が、あんな目をするんだよ。
張り詰めていた感情が、怒りに転じてぶつけられる。
涼は机を叩いた。
潮田はその音にも動じず、静かに答える。
「……敵にも、理由がある。だが、お前がそれを知る必要はない。
戦場では、理由は命よりも後に来るものだ」
涼は唇を噛んだ。
わかっている。
正義なんて、主張する側の都合でしかない。
だが、それでも。
「俺は……許せない。
凪咲は、戦い続けて何を得たんだ?
俺は、この先も……MAに乗っていけるのか?」
問いは、空気の中に浮いたまま、誰も答えなかった。
その夜。
涼は病室に戻り、再び凪咲の隣に座った。
眠る妹の顔を見つめながら、自分の中にわき上がる声を押し殺す。
──怒りも、悲しみも、迷いも、全部、MAが力に変えてくれる。
でも、それで本当に「守れる」のか。
涼は、静かにMAスーツに袖を通していた。
鏡の中の自分は、以前と何も変わらないように見える。
けれど、確かに“何か”が変わっていた。
心の奥にあった黒い怒りは、まだ消えていない。
だけどそれだけで、この先は進めない。
あの日、敵の少女が銃を下ろした理由。
凪咲が命を懸けてまで、兄に託したもの。
それが、涼の中で少しずつ形を持ち始めていた。
格納庫では、すでに《ファフナー・スレイヴ》の再起動準備が進んでいた。
冷却装置が離れ、リペアパネルが閉じられていく。
まるで巨大な生物が、再び目を覚ますかのように。
「行くのか」
背後から、潮田の声がかかった。
涼は振り返らずに答えた。
「ああ。まだ終わってない。
……俺自身が、何を信じて戦うのかは、俺が決めたい」
潮田は少し微笑んだ。
わずかに目元の皺が深まる。
「……凪咲も言ってた。
『兄は強い』ってな」
涼は驚いたように潮田を見た。
だが、その表情に怒りはなかった。
「……凪咲が?」
潮田はゆっくりと首を振る。
「ああ。やっぱり兄妹だよな。
……初めてMAに乗り込んだ時も、あいつは同じ目をしてた。
あの目には、迷いがなかった」
涼は目を伏せた。
そして、小さく息を吐く。
「……俺は戦います」
「あいつはお前の背中を信じてた」
沈黙が落ちた。
だが、今のそれは、気まずさでも悲しみでもない。
静かな、信頼と共鳴の沈黙だった。
潮田は言った。
「涼。俺たちは“失ったもの”ばかり数えてしまう。
だが、それは“残されたもの”を守る力になる」
涼は、その言葉を心に刻むように聞いた。
「前を向け。
進むために必要なのは、“背負う覚悟”だけだ」
涼は、頷いた。
「……ああ。背負っていく。凪咲の分も、俺の分も」
再びMAのハッチが開く。
コックピットに乗り込むその手に、迷いはなかった。
格納庫に響く起動音。
冷却スチームが舞い上がり、システムが接続されていく。
「オールリンク、完了。
第13型、稼働確認」
オペレーターの報告に、格納庫全体が息を呑むような空気に包まれる。
涼はヘルメットのバイザー越しに、遠くを見た。
まだ終わっていない戦い。
見逃された命の意味。
奪われたものと、守るべきもの。
それら全てを背負って、再び立ち上がる。
──君が「逃げて」と言ったあの日、
俺の中の何かが止まった。
でも今、俺は、もう一度歩き出す。
戦場は、まだ遠くで煙を上げていた。
だが、涼の目にはもう、かすかな光が射していた。
妹の眠るベッドの隣で、見えない希望を抱えながら。




