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潮の核域 -Few remaining seas-  作者: 梯子
兵器の逃亡
36/53

【第31話】第13型MA《ファフナー・スレイヴ》

──金属の軋む音が、冷たい格納庫の奥に響いた。


巨大なMAが、深海から引き上げられた直後の姿のまま、分解もされず、格納台に固定されていた。

塩と血と焼けたオイルの臭いが、まだ機体に染みついている。

そのコックピットハッチが、ようやく自動解錠された。


冷却ガスが白い靄となって吹き出す。

中から運び出されたのは、二人のパイロット。

ひとりは、涼。

激しいGに晒され、出血しながらも、命をつないでいた。


そしてもうひとり──涼の妹であり、同じ部隊に所属していたMAパイロット、大津おおつ 凪咲なぎさ

凪咲の身体は、小さかった。

同世代の女性よりさらに細く、どこかガラス細工のように脆く見える。



「……血圧は安定してる。外傷もない。ただ、意識レベルが……」


医療班の報告に、格納庫の隅に立つ男がゆっくりと頷いた。

潮田潤──。

その男が、運ばれる凪咲の姿に数秒、無言で目を落とした。


「……よく、帰ってきたな」


小さく呟いたその声は、彼女に届くことはなかった。

だがその語調には、安堵と痛みが滲んでいた。

彼にとって、大津凪咲は“ただの部下”ではなかった。

直属の後輩であり、唯一自分を「先輩」と呼び続けた女の子だった。


冷たくなる手を、訓練のたびに強く握り返してくる彼女を、潮田はいつしか“妹のように”感じていた。

だからこそ──今の彼女の状態が、口に出せないほど辛かった。


「意識の回復には、時間がかかるかもしれません」


医師の報告に、潮田は短く礼を述べるだけで、何も言わなかった。

彼の視線は次に、ベッドに横たわるもうひとりの生還者──涼へと向いた。

 

涼は、まだ覚醒していない。

だが、脳の活動はゆるやかに回復しており、まもなく意識が戻るだろうと診断されていた。


「まったく……妹のほうが先に回復するかと思ったんだがな」


ぽつりと潮田が言ったその声に、思わず涼の指がピクリと動く。


(……今、何か……聞こえたような……)


混濁する意識の中、ぼんやりとした光の粒が、頭の奥に浮かぶ。

爆発の轟音、漂う硝煙、そして──敵の顔。

あの、“耳のある少女”。

彼女が、こちらに銃口を向けながら、何かを言った。

──逃げて。


その言葉だけが、ずっと頭の奥にこびりついている。

(どうして……撃たなかった?)

敵の正体も、目的も、自分との関係もわからない。

だが明らかに、彼女は“迷っていた”。

そして、殺すことを選ばなかった。


 

「……涼。起きてくれ。お前の妹は、今は安定してる。……だが──」


潮田は言いかけて、言葉を切った。


「……いや、なんでもない」


涼にはまだ、その言葉を告げられない。

涼の目が開いたとき、まず知らせるべきは、妹が生きているという事実だけでいい。


その先の“現実”は──まだ、彼が受け止める準備ができたときでいい。


潮田は、凪咲の傍らに歩み寄り、ベッドの縁にそっと手を添えた。

彼女の頬にかかった髪を、無言で一筋、払う。

(……乗るなと言っただろう。お前はまだ、あんな機体に……)


けれど彼女は、乗った。

理由はわかっている。

兄を守るため、涼を追いかけるため。


その覚悟は、誰よりも潮田が知っていた。

だからこそ──なおさら、胸が痛かった。

 

凪咲の呼吸器が、小さな音を立てて作動している。

それが、この戦場において唯一、“生きている”ことを実感させてくれる音だった。





過去回想:

焼けた空は、いつも赤かった。

それは太陽のせいではない。

街を覆う煤煙と、溶けた鉄と瓦礫が照り返す、終わった文明の残光だった。


爆撃の跡が残る通りを、少年と少女が歩いていた。

瓦礫の間を縫うように進む彼らの足音が、濡れたコンクリートに吸い込まれていく。



「兄ちゃん、いた……! ミカンの缶詰……!」

小さな声が、崩れかけた商店の奥から響く。

少女──凪咲は、嬉しそうに泥だらけの缶詰を抱えて走ってきた。


手は傷だらけだったが、顔だけはくしゃっと笑っている。



「おい、勝手に中に入るなって言っただろ……。また崩れたらどうするんだ」


兄の涼は、険しい顔を向けるが、その声には怒りよりも不安がにじんでいた。

凪咲は、へらっと笑って、缶詰を差し出す。


「だって、お兄ちゃん最近元気ないし。

甘いの食べたら、ちょっとはマシになるかなーって思って」


涼はそれを受け取ると、わずかに目を伏せた。


「……バカ」

彼の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

それが、旧国家の暮らしだった。


崩れかけた学校、雨漏りする病院、瓦礫でできた遊び場。

食料も、薬も、燃料も限られていた。

だが、人々はそれを「分け合う」ことを忘れなかった。


母はいつも言っていた。

「この国が残したのは、“制度”じゃない。“人”よ。

 誰も切り捨てないって、あんたたちの父さんが信じたんだから──今度は、私たちが信じる番よ」



その“信じる”という言葉が、崩れ始めたのは数年後。

新国家の偵察ドローンが空を覆い始めた頃、街の通信は不定期に遮断され、物資の補給も途絶えた。


『基準に満たない区域の生産性を確認。再建性:低。

 当該区域を非生産指定区域として登録、支援対象から除外』

──それが、宣告だった。


街は静かに、しかし確実に、見捨てられていった。

避難要請は届かず、国際機関のルートは全て凍結された。

新国家は「地表除染作戦」を敢行し、その放射線は風に乗って街を襲った。


母が最初に倒れた。

血を吐くようになり、咳が止まらなくなった。


病院は閉鎖され、抗生物質すら手に入らなかった。

あの夜、涼は泣きながら叫んでいた。


「誰か助けてくれって、ずっと言ってたのに、誰も来ない!」

壊れたラジオを抱きしめて、受信できないノイズの中で。

母は、そんな涼の頭を黙って撫でていた。


そして、ただ一言だけ残した。

「……生きていてくれて、ありがとう」

それが、最後の言葉だった。

 


数日後──

涼は、母の冷たい身体に凪咲を抱かせたまま、自分の脚を自分で立たせた。

もう、誰も来ないのなら、自分が変わるしかない。

凪咲を守るために。


旧国家が密かに再建していた“決戦兵器”計画に、涼は志願した。


若年枠の適性テストで最も低い評価だったにも関わらず、

彼は、試作型MAのコックピットに座ることを選んだ。




「新国家のように、核に頼らず、誰も切り捨てず、俺たちは生き延びる」

それが、涼の戦う理由だった。

妹に、もうあんな想いをさせたくない。


そして、自分と同じように「選ばれなかった者たち」の痛みが、

戦場で無意味にならないように。

だから、彼はMAに乗る。

そして、笑いながら都市を燃やす“敵”を、絶対に許さない。


凪咲もまた、兄と同じ道を選んだ。

潮田の部隊に入り、兄に追いつくため、無理を重ねた。

それでも彼女は、決して弱音を吐かなかった。



あの時──潮田は気付いていた。

彼女の身体が限界を超えていたことも、神経負荷に悲鳴を上げていたことも。

でも、止められなかった。


彼女もまた、守られるだけの存在ではなく、誰かを守る側になろうとしていたのだ。

そして今、その代償が、彼女の身体に残ってしまった。


 

涼は、ベッドの中でゆっくりと目を開けた。

天井の白が、やけに遠く感じる。

隣のベッドでは、凪咲が静かに眠っている。

顔色は悪くない。呼吸も安定している。

だが、その姿を見て、涼は本能的に悟った。


(……凪咲はもう、目覚めないかもしれない)

指先が震える。


まだ、彼女は目を覚ましていない。

だが──何かが終わってしまった気がした。

そして、それでも。

涼は、戦わなければならない。

 





病室は静かだった。

電子機器の微かな音と、凪咲の呼吸音だけが、密やかに空気を揺らしている。

涼は椅子に座ったまま、妹の寝顔を見つめていた。

もう何時間、こうしているだろう。


時折、看護師が点滴を替えに来るが、涼はほとんど口を開かなかった。



数日後。

──その報告は、潮田から受けた。


基地内の医療室。

涼はまだ車椅子のままだったが、潮田はわざわざ自ら報告に来た。


「凪咲は……意識は安定している。命に別状はない」

潮田はそう言った。


ただし、目を伏せたまま。

その一瞬の間を、涼は見逃さなかった。


「だが?」


潮田は沈黙する。

彼の中で、言葉が何かを押しとどめていた。

涼は苛立ちを込めて問い詰めた。


「乗れないんだろ。──もう、MAには」



潮田は、しばらく黙ったあと、小さくうなずいた。

「神経リンクの損傷が大きすぎる。ドクターは“再適性ゼロ”と診断した」

 

沈黙が落ちた。

涼は拳を握り、爪が掌に食い込むのも構わず、じっと一点を見つめていた。


「……なんで、助けたんだ」


低い声だった。怒りとも、悲しみともつかない。

潮田は視線を逸らさず、静かに答えた。



「俺の部下だったからだ。迷う理由なんてない」

「だったら、どうして今まで黙ってた」

「言えなかった。……いや、言いたくなかったんだ」


その一言に、涼は目を見開いた。

潮田は軍服の袖を強く握り、顔を曇らせる。


「凪咲は、いい兵士だった。いい後輩だった。

……俺にとっては、妹みたいな存在だった。

 だから、どうしても……最後まで、希望を持ちたかった」

 

涼は口を開けずにいた。

潮田は、淡々と話すその声の裏に、深い痛みを隠していた。

彼は本気で凪咲を思っていた。

それが涼にとって、唯一の救いだった。


──だが、心の底から湧いてくる感情は、それだけではなかった。


 

「あの日、敵のパイロットに撃たれそうになった。

 でも──撃たれなかった。見逃されたんだ」


涼の声が震える。


「“逃げて”って……言われたんだ。

意味がわからなかった。……なんで敵が、俺を逃がすんだよ」

潮田は黙って聞いていた。


「俺はあいつらを許さない。母さんを、家を、あの街を……

凪咲まで、全部奪った“あいつら”を……!」



でも──でも、どうして、そんな奴が、あんな目をするんだよ。

張り詰めていた感情が、怒りに転じてぶつけられる。

涼は机を叩いた。



潮田はその音にも動じず、静かに答える。

「……敵にも、理由がある。だが、お前がそれを知る必要はない。

 戦場では、理由は命よりも後に来るものだ」

 

涼は唇を噛んだ。

わかっている。

正義なんて、主張する側の都合でしかない。

だが、それでも。


「俺は……許せない。

 凪咲は、戦い続けて何を得たんだ?

 俺は、この先も……MAに乗っていけるのか?」


 

問いは、空気の中に浮いたまま、誰も答えなかった。



その夜。

涼は病室に戻り、再び凪咲の隣に座った。

眠る妹の顔を見つめながら、自分の中にわき上がる声を押し殺す。


──怒りも、悲しみも、迷いも、全部、MAが力に変えてくれる。


でも、それで本当に「守れる」のか。









涼は、静かにMAスーツに袖を通していた。

鏡の中の自分は、以前と何も変わらないように見える。

けれど、確かに“何か”が変わっていた。

心の奥にあった黒い怒りは、まだ消えていない。

だけどそれだけで、この先は進めない。

あの日、敵の少女が銃を下ろした理由。

凪咲が命を懸けてまで、兄に託したもの。

それが、涼の中で少しずつ形を持ち始めていた。

 



格納庫では、すでに《ファフナー・スレイヴ》の再起動準備が進んでいた。

冷却装置が離れ、リペアパネルが閉じられていく。

まるで巨大な生物が、再び目を覚ますかのように。



「行くのか」

背後から、潮田の声がかかった。


涼は振り返らずに答えた。



「ああ。まだ終わってない。

……俺自身が、何を信じて戦うのかは、俺が決めたい」


潮田は少し微笑んだ。

わずかに目元の皺が深まる。


「……凪咲も言ってた。

『兄は強い』ってな」


涼は驚いたように潮田を見た。

だが、その表情に怒りはなかった。


「……凪咲が?」

潮田はゆっくりと首を振る。


「ああ。やっぱり兄妹だよな。

……初めてMAに乗り込んだ時も、あいつは同じ目をしてた。

あの目には、迷いがなかった」


涼は目を伏せた。

そして、小さく息を吐く。


「……俺は戦います」

「あいつはお前の背中を信じてた」

 

沈黙が落ちた。

だが、今のそれは、気まずさでも悲しみでもない。

静かな、信頼と共鳴の沈黙だった。

潮田は言った。


「涼。俺たちは“失ったもの”ばかり数えてしまう。

だが、それは“残されたもの”を守る力になる」


涼は、その言葉を心に刻むように聞いた。


「前を向け。

 進むために必要なのは、“背負う覚悟”だけだ」

 

涼は、頷いた。


「……ああ。背負っていく。凪咲の分も、俺の分も」


再びMAのハッチが開く。

コックピットに乗り込むその手に、迷いはなかった。

格納庫に響く起動音。

冷却スチームが舞い上がり、システムが接続されていく。


「オールリンク、完了。

 第13ファフナー・スレイヴ、稼働確認」


オペレーターの報告に、格納庫全体が息を呑むような空気に包まれる。

 

涼はヘルメットのバイザー越しに、遠くを見た。

まだ終わっていない戦い。

見逃された命の意味。

奪われたものと、守るべきもの。

それら全てを背負って、再び立ち上がる。



──君が「逃げて」と言ったあの日、

俺の中の何かが止まった。

でも今、俺は、もう一度歩き出す。

戦場は、まだ遠くで煙を上げていた。


だが、涼の目にはもう、かすかな光が射していた。

妹の眠るベッドの隣で、見えない希望を抱えながら。


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