【第27話】海より、光る眼
鉛のような錆びた香りを纏う潮風が、港湾都市の高層ビルを滑っていた。
瓦礫に残る赤茶けた血が、夜を待たずに乾いていく。
静寂。それは嵐の前の、異様なほど澄んだ静けさだった。
「海面──揺れてます。あれ、潮流じゃない」
新国家軍・湾岸第七駐屯拠点。
地上から遠望した観測兵の声が、通信に混線して入る。
「……いや、違う。光ってる……?」
海。
その表層に、確かに“何か”が浮かび上がっていた。
──眼。
海洋の"異種"のコア。
巨大な、獣のような、けれどどこか人のような形をした“目”。
光でもない。水でもない。
ただ、そこに“存在していた”。
「なにあれ……熱源もないのに……」
レーダーにもソナーにも映らない。
だが確かに、そこにあった。
それは、世界そのものが何かに“見られている”感覚だった。
ただの海が、ただの水ではなくなった瞬間だった。
知性。意志。あるいはそれすら超えた何かが、
この地を“注視”していた。
その時だった。
突然、夜が来た。
──空が、黒く、塗りつぶされた。
「EMP!! 全システム落ちます!!」
都市の灯りが、すべて同時に消える。
衛星通信。ドローン。砲塔制御。ステルス機。
まるで息を呑んだように、世界が沈黙した。
「ばかな……! 上空の制御衛星まで──!? 海からのEMPで!?」
その混乱のなか、一機の新国家ステルス機が、
高度三千で海面上を偵察飛行していた。
「こちら<プロキオン1>、目視確認──海上に構造体。
全身、発光。構成物質不明──熱探知不能。接近距離、あと7キロ──」
通信が、プツンと途切れる。
その数秒後、港の空に、“雨”が降った。
溶けた機体の一部だった。
ステルス合金の翼の断片が、焼けただれ、空中でドロリと崩れて消えた。
「なっ……!」
“何か”が、機体を溶かしたのだ。
兵器ではない。
未知のエネルギーでもない。
ただ、“眼”が見ただけで、触れたものすべてが、融ける。
それは、物理法則を無視した現象だった。
あたかも世界そのものの法が、書き換えられたかのような──
“観測されたこと”自体が、物質を破壊する。
「これは──神話兵器か……っ?」
誰かが呻くように言った。
海は喋らない。
だが、その無言の“存在”は、誰よりも強く語っていた。
──お前たちの理屈など、私には通用しない。
その異常な戦場に、ようやく送られてきたものがあった。
あいりゃだった。
海上を旋回し、一瞬で、高度を上げる。
中央、戦術スーツに包まれた一人の少女。
「なんだあれは」
MAの中から、パイロットの潮田があいりゃを捉える。
パイロットの大津 凪咲が潮田の後方にぴったり付いている。
「先輩。光熱圧、異常な数値……この空気、息が痛い」
海洋の放つ粒子がMAの表面を削る。
あいりゃは一瞬で、高度を上げる。
重力制御ユニットが回転し、視界の中で都市が急速に遠ざかっていく。
その時、海洋の背中のフィンが展開。
眼下には──青く燃える“眼”を中心に、崩壊しかけた世界があった。
だがその中心で、あいりゃはたった一人。
どこにも属さず、ただそこに在った。
次の瞬間、海が唸った。
巨大な“触腕”が、海中から伸び上がり、新国家軍の第6艦隊を
船もろとも握り潰した。それは、「始まり」だった。
「ギィイ……あ、ああああ──!!」
潮田「おっと...やってくれたな」
大津「先輩。私があのデカブツに熱源をぶち込みます」
潮田「あぁ。油断はするな」
海が、立ち上がった。
正確には、海水が──だった。
波ではない。津波でもない。
海が、自らの意志で、身を乗り出しているかのようだった。
「地表水位、上昇──っ……異常です! 重力無視の上昇圧……!」
最初に巻き込まれたのは、港湾に残っていた民間人たちだった。
海から吹き上がる霧のような飛沫──
海水には放射線。しかも、桁違いの濃度だった。
それが肌に触れた瞬間、人々は“燃えた”。
「ギィイ……あ、ああああ──!!」
その場にいた者たちはただ、空から“死”が降ってきたとしか認識できなかった。
街を飲む水はすべて、死の水だった。
叫び。
皮膚が剥がれ、目が溶け、骨が露出する。
それでも意識だけが残り続ける数秒間。
後にこの現象は「黒い海雨」と記録される──
「地表水位、再び上昇!第2波が来ます!」
その“海”の中で、白く光る輪が、空を裂いた。
airyaが海洋の巨大な“触腕”に向かって突進。
白い熱源を放ちながら巨大な“触腕”を切り裂いた。
“触腕”を失った海洋はバランスを崩して海に傾れ込む。
その巨大な波飛沫が、街を汚していく。
神崎「豪快だな...」
本部のモニターに海洋の映像が映る。
海洋は新たに巨大な“触腕”を生殖させようとしている。
神崎「あいりゃ。海洋は“触腕”を攻撃しても死滅しない」
airya「どうしたらいいの?」
神崎「眼だ」
airya「目? 目ってどこに──」
その時、海洋が動き出した。あいりゃに海洋が放った海の波飛沫がかかる。
高濃度放射線を含んだ死の“海”の中で、
たったひとつ、舞っている海洋。
目のような、花のような、触腕のような。
それは不定形でありながらも、
どこか神聖な、美と呼びたくなる曲線を描きながら舞っていた。
「……舞ってる……?」
あいりゃの目が見たのは、まるでバレエのような回転運動だった。
オレンジ色の光が海洋の眼から放たれ、焼き切られる空母。
潮田「あいつ、びしょ濡れじゃないか」
海洋の後方にMAが現れる。
大津「こちら<ヴァルキュリア1>! 視認した!
中央にコアらしき構造体あり、攻撃を──!」
上空から、旧国家のMA──第14型・コマンダーが突入してきた。
その背部には、構造熱破砲。
ステルス航行での海上突入を果たしたこの機は、
海洋の中心──あの“眼”の奥に、わずかに露出したコア構造を捉えていた。
潮田「こちら<ヴァルキュリア2>
高空より侵入成功。敵“眼”にコア構造を確認──」
次の瞬間、夜空に“矢”が走った。
高熱収束弾。旧国家が過去の戦争で使っていたコロニー落とし級の兵装の、空中縮退型モデルだった。
それを、MA──第14型・コマンダーが空から突き刺したのだ。
大津「……今度こそ、終わらせる」
パイロットの声が震えていた。
怒りか、恐怖か、憎しみか。もはや境界は曖昧だった。
機体の肩部外装が展開され、構造熱破砲が臨界振動を始める。
陽炎のように空気が揺れた。
大津「発射! コアに熱源を──!」
それは音速を越え、光速に近い粒子の槍。
大津「ターゲット、ロック──発射!」
雷鳴。
真っ直ぐに、“海の瞳”の中心へと撃ち込まれた。
──直撃。
一瞬、海洋の“眼”がひるみ、触腕が収束する。
水面が跳ね、海洋の“眼”がひるんだ。
触腕が波のように逆巻き、海の全層が震えた。
海中に一瞬だけ、巨大な核のような構造体が露出する。
「……今だッ!!」
第二射。
収束荷電弾が深く沈み、振動圧で海の半径4キロが一気に蒸発した。
──勝てる。
誰もが、そう思った。
人類の兵器が、ついに“あれ”に届いたと。
だが。
それは、“眼”が完全に覚醒する合図にすぎなかった。
次の瞬間、海が立ち上がった。
いや、そう見えただけだ。
正確には、空間が歪んだ。
「なに……!? 空が、ねじれて──っ!」
空と海の境界がなくなる。
重力が狂い、方位が崩れ、上下の認識すら奪われた。
“触腕”が雲を裂く。
コマンダーMAが咄嗟にバーニアで後退する。
だが、間に合わない。
海が、天へ伸びた。
腕のように、指のように、ひとつの意思を持って。
そして──
バギッ──!!!
音がしなかった。
空中にあったMAが、まるで“空間ごと引き抜かれる”ように、
瞬きの間に姿を消した。
「……ッ!」
あいりゃは見ていた。
空で踊る光。揺れる水と風。崩れる重力。
そして、海が機体を咀嚼していくのを。
映像で見たものじゃない。
記録じゃない。
現実として、目の前で起きていた。
「やめて……っ!」
声は、風に散った。海は応えない。
ただ淡々と、静かに、ひとつのMAを飲み込む。
破壊される外装。
潰れる関節。
コックピット内部のガラスが割れ、
中のパイロットが、一瞬だけ、あいりゃと視線を交わした──
その目に映っていたのは、絶望でも、怒りでもなかった。
ただ──
「なぜ、誰も助けてくれなかったのか」という、問い。
次の瞬間、
MAの全身は分解され、
機体と人とを包んだ粒子が、水中に沈んでいった。
『──人間は、こうして食べられるんだね』
誰の声かもわからなかった。
見上げた空。
見下ろす海。
その中間に、ただ一人。
彼女は浮かんでいた。
自分の意思で浮いているのか、
それとも重力の失われた空に漂っているだけなのか──わからない。
海洋の大きな瞳と目が合った。
本能的に、その場所がコアだと解る。
波飛沫を巻き上げながら海の底に向かっている海洋。
海洋が沈むよりも早く、あいりゃは飛び立ち、
その右手から白い閃光が上がる。
高濃度放射線の光が、海洋の眼を溶かしていく。
白く光る波が、ただ、美しかった。
それが、何より残酷だった。
あいりゃの放つ白い光によって灼けた珊瑚が浮かんだ。
海に沈んでいく海洋。
その個体が掴んだMAも引きずり込まれ、沈んでいく──
潮田の手によって、
MAのパイロットが搭乗しているパーツDヴォールト(D-Vault)が
機体から運び出される。
潮田「間に合ったか...? 生きていてくれ」




