【第26話】唯一の“核域”
新国家軍事圏・本部. 最上階
郷田は放射能に汚染された海を眺めている。
新国家は、この海の彼方にある”残された海”を目指し、奪還する策を練っていた。
「この遺伝子を使えば……人間はまた、海を取り戻せる」
「“新しい人類”として生きる道があるかもしれない」
だが、そのために必要なのは、彼女の命そのものだった。
肉体ではなく、構造そのものを、解析し、複製し、再構成しなければならない。
新国家は知っていた。
少女の存在が、未来の軍事と生存の分岐点になることを――
研究員たちは息を呑む。
「――驚異的です。この子の細胞、第三次被曝試験でも壊死が起きない」
「放射線耐性の遺伝子マーカーが……通常人類の千倍以上。まるで“自己修復する核防壁”だ」
「こんな個体、他にいません。彼女の遺伝子さえ解析できれば、“海”に踏み込める……」
彼女の脳波は安定しており、外界の騒がしさを知らぬまま、深く静かな呼吸を繰り返している。
だがその周囲では、幾重ものターミナルが赤く点滅し、研究員たちの声が飛び交っていた。
「遺伝子サンプル、第三層までスキャン完了。異常修復因子、確認!」
「ナノスレッドが自己再構築してる……これ、通常のヒトDNAじゃあり得ない」
「深海起源じゃない。これは“陸の適応”じゃなくて、“海の拒絶”だ。人類にはない構造だ」
モニターの中、数十億の遺伝子配列が組み変わり、色を変えていく。
画面を覗き込む研究主任の額には、汗が滲んでいた。
この少女の身体にあるもの――それは明らかに、人類がまだ持っていない進化だった。
核汚染の地で“戦える人類”を生み出す鍵。
「”残された海”は我々のものだ」
その時、緊急通信が鳴り響いていた。
巨大な壁面モニターに、旧国家軍事圏の司令官が映る。
表情は険しく、背後の管制塔では爆撃機が滑走準備に入っている。
「……貴国が放った核攻撃――対象市街区への“遺伝子兵器”使用を、我々は戦争行為とみなす」
「正式に抗議する。我々は報復を行う」
「貴国の施設群、及び“滅びの天使”の存在そのものを、脅威と認定した」
画面越しの怒声が、作戦室の空気を震わせる。
あいりゃが放った先制核攻撃――
それが、旧国家との冷戦の均衡を一気に崩した。
壁面のモニターが暗転し、旧国家軍事圏の通信が途絶えた。
「……奴ら本気だな」
「このまま黙っていれば、“再生計画”も、潰される」
「我々には、切り札がある。だが……」
――No.101
それが、滅びの天使であり、希望そのものだった。
静寂のあとに響いたのは、低くくぐもった爆撃警報。
作戦室の光は赤に染まり、次々に司令項目が打ち込まれていく。
だが――郷田将軍は、椅子に腰掛けたまま動かない。
その鋭い眼差しは、ただ一点、北東の監視ラインを見つめていた。
郷田は静かに、席から立ち上がった。
「No.101――じきに来る」
まるで、そこに確信があった。
彼女は戻る。
人間に成り損なった兵器。
世界を焼き尽くすために造られ、なお、“心”という名の誤算を抱えた少女。
その帰還こそが、新国家軍事圏が次の一手を打つための前提だった。
「軍の戦力を再編成しろ」
赤い光の中、作戦フロアが再び動き出す。
そして、その扉の先―― 人の影が静かに、かすかな足音とともに近づいていた。
あいりゃだった。
重厚な鉄扉が、わずかに軋みながら開いた。
その音に振り返った幹部たちが一斉に動きを止める。
入ってきたのは、軍服でも研究者の白衣でもない、ただの少女――
だがその姿に、最奥の椅子に座る男はすでに立ち上がっていた。
「……“No.101” 。“airya”と呼ぶべきか?」
あいりゃは何も言わない。
ただ、ゆっくりと歩み寄り、正面に立つ。
外では、旧国家軍事圏の無人ドローンを探知した警報が鳴っている。
だがこのフロアだけは、不思議な静けさに包まれていた。
「なぜ、海千留を回収したの」
郷田は何も答えない。
赤い警報灯の明滅が、窓際に立つあいりゃの頬を照らしていた。
背後では大型モニターが、北西防衛ラインへの攻撃予測を表示し続けている。
「……彼女の遺伝子には、特殊な因子がある。
高濃度放射線への抗体を――自然発生的に、持っていた」
「……放射線の抗体?」
「人類はもう、核の時代を生き残れない。
しかし、彼女の血は、放射能への適応を示している。
あれは偶然でも奇跡でもない。 ――人類の、未来への鍵だ」
「……君は見たことがあるか?
あの“街”に放たれた、放射の爪痕を」
あいりゃは振り向かない。
「お前が落としたあの核で、都市一帯は溶けた。
人間は、細胞単位で崩壊し、風と共に消えた。
草は焼かれ、木は腐り、空は鉛のように沈黙した。
川は止まり、鳥は落ちた。
生き物という生き物が、例外なく――“終わった”んだ」
側近は一歩、あいりゃへと近づく。
「それが“放射能”だ。
人間にとって、もっとも純粋で、確実な“死”だ。
――だからこそ我々は、“生きる”ために抗体を求めている」
あいりゃの肩が、かすかに揺れた。
「この世界はもう、清浄じゃない。
大気も、地殻も、海も、汚染されている。
“高度放射能”に犯されて、
この海は――変質した。 海洋は、もはや“人類の敵”だ。
そして、“高度放射能”に犯されたこの海の中に、
生命を再生させ、生命を生み出す事のできる、唯一の“核域”がある。」
「あなたが何を言ってるのか、わからない」
「生命を再生させ、生命を生み出す事のできる、唯一の“核域”
その中にある聖水だけが、生命の源だ。
もう、“残された海”の中でしか、新たな生命は生まれないのだよ。
我々人類は、干からびていく大地の中で、
変質した海からやってくる“人類の敵”と戦わなければならない」
モニターが切り替わり、黒く濁った波と、複雑に蠢く海中構造物が映し出される。 新国家が密かに観測している、変異種と放射線変質海洋の姿だった。
「海洋は“核”を取り込んで進化していく。
――こちらが撒いた放射能を、奴らは“資源”として取り込んでいる動きもある。
その進化は止まらない」
郷田の眼差しが鋭くなる。
「放射線への“抗体”は――人類の武器。
戦わなければ、生き残れない。
これは地球の支配権を巡る戦いだ」
沈黙。
「海千留に関係あるの?」
「海千留の遺伝子は有能だ。そして、お前も」
あいりゃはいつもの無感情な目ではない。
そこには、ほんのわずかな怒りと――哀しみが混じっていた。
「……彼女は“ただの女の子”だった。
病気で、弱くて、普通に笑って、泣いて……。
――人類の道具じゃない」
「道具ではない。希望だ。
お前も、それを教えられてきたはずだ――“No.101”。」
あいりゃの名前は呼ばれなかった。 ただその番号だけが、冷たく響いた。
「そしてお前は、
人類がこの死に満ちた星で生き延びるための、“方舟”だ」
あいりゃは何も言わず、拳をゆっくりと握る。爪が皮膚に食い込むほどに。
「旧国家は報復を始める。
お前が放った一撃が、その口火だった」
「8月1日5:00。 戦場に来い」
しばらくの沈黙ののち、あいりゃは一歩、歩み出す。
そのまま彼女は背を向け、再び管制室をあとにする。
誰も、彼女を止めなかった。
郷田はその背を見送りながら、かすかに呟いた。
「……No.101、君の進化が、我々の終焉を導くなら――それもまた、本望だ」
扉が静かに閉まった。
そして、外の空では、戦争の狼煙が再び上がろうとしていた。




