【第2話】静かなる、戦争の海
地図にない海。
上空に築かれた戦略司令基地。その会議室では、"別の戦争"が進行していた。
"未知の海洋生物による地上の侵略"
人類全体が団結すべき危機――にもかかわらず、新国家と旧国家は相変わらず互いの喉元を狙っている。
それが、この世界だ。
「――海中資源の回収が遅れている。宗教国家連合の無人艦隊がまた邪魔をしてきた」
郷田は資料から目を離さない。
神田は呆れたように窓の外へ視線を流す。
「どうせあいつら、聖書の“海の浄化”とやらを唱えて妨害してるだけさ。
だがな、放っておくとまた海底資源は奪われる」
「それだけならまだいい。
今朝の偵察機が、旧国家軍事圏の第七艦隊を探知した。
奴ら、動いてるぞ。仕掛けてくるかもしれん」
「『海の戦争』か……」
海を舞台にした冷戦の延長線。
核兵器ではない、だが十分に致死的な水中兵器による情報と領域の奪い合い。
新国家軍事圏と旧国家軍事圏は表面上こそ停戦状態にあるが、裏では日々、サンゴ礁の陰でドローン艦隊と自律魚雷が死闘を繰り広げている。
人間同士の殺し合いではない。それ以上に非情で、透明な戦争だった。
「実験庁の件はどうなってる? “あれ”は完成したのか?」
「《No.101》――進化は順調です。既に音声認識と学習能力の初期検証段階に移行しました。言語処理能力は未確認です」
「猫に言語処理……本当に、そんなもので“人類の次”が作れると思ってるのか?」
「問題はありません。必要なのは知性だけではない。“憎悪”です。我々に飼われながら、裏切り、牙を剥く存在。それが抑止にもなる」
「……皮肉なもんだな。愛玩動物に復讐心を植えつけて世界を救おうってのか」
「それが“効率”なんですよ」
その会話の裏で、ガラス越しに見つめ合う研究員と兵士がいた。
軍服をはだけ、下着をずらし、軍靴のまま床に膝をついた女の瞳は、わずかに潤んでいる。
「ちょっと――また?」
「お前、いつまた次の臨場があるかわからないだろ?」
「そ...うだけど。この部屋、監視されてるよ」
「今更。見せつけてやろうか?」
そう、今更。我々は戻れるわけもない。
いつ死ぬかもわからないのに。
女は下着を脱ぎ捨てた。
遠くの方で、警報が鳴っている。
「旧国家軍事圏による無人ドローンを探知しました。周囲を警戒してください。旧国家軍事圏による無人ドローンを探知しました。周囲を警戒してください」
警報が鳴り響き、会議室が解散の気配を帯びたころ。
神崎は無言で資料を抱え、ひとり別方向へと歩き出した。
向かう先は――深層実験庁。
自動ドアが開くと、白い消毒灯が彼の影を細長く伸ばした。
研究室の奥、強化ガラスの向こうで《No.101》――あいりゃは静かに眠っている。
神崎はライトも点けず、闇に溶けるようにガラスに近づく。
呼吸は浅く、わずかに胸が動くたび、光が柔らかく揺れた。
指先が触れそうな距離。
その目は、研究対象を見るそれではなかった。
目の奥に宿る熱は、研究者の理性をとうに越えていた。
「……いい子だ。今日も数値は綺麗だな」
囁きに近い声。
彼は書類の山をまるで宝石でも扱うように机へ広げ、ページを次々とめくる。
脳活動、遺伝子応答、放射線適応指数――
そのどれもを、神崎は食い入るように追い続けていた。
「おい、これ。昨日の推移と照合しろ。
――違う。まだ足りない。“もっと深い変動”を起こせる薬があるはずだ」
部下は戸惑いながらも、彼の声の鋭さに逆らえない。
神崎は書類の束を叩きつけるように渡した。
「既存の投薬リストじゃ不足だ。未承認の実験薬でも構わん。
……《No.101》に必要なのは“刺激”だ。死なない程度のな」
その声音には、異常な期待が混じっていた。
「……美しい数値を見せてくれ」
部屋の隅に置かれた別の飼育ケージへ、神崎の視線が移る。
そこに横たわるのは、かつて彼が執着した被験チンパンジー――すでに冷たくなって久しい。
「……あいつも、良いデータを出していたのに」
言葉の端に滲むのは哀悼ではない。
失われた“材料”への執念と悔しさ だった。
「もっとやれたはずだ……」
拳がわずかに震える。
神崎にとって被験体は「命」ではなく「成果」だった。
しかしあいりゃだけは――それ以上の何かだった。
再びガラス越しに近づき、眠るあいりゃを見つめる。
その表情は、狂気と崇拝が入り混じったものだった。
警報が再び鳴るまで、神崎は一歩も動かなかった。
神崎は机に書類の山をばらまくように広げる。
一枚一枚を指で撫でるようにめくり、数値の誤差を探すその目は狂気すら帯びていた。
「おい、これ。昨日のグラフと一致しない部分がある。
――“揺らぎ”がある。これは進化の前兆だ。解析班を起こせ」
夜勤の若い研究員が震えながら近づく。
「で、ですが神崎主任、解析班は今――」
「黙れ。政治部の連中は《No.101》を“予備兵器”程度に見ている。
あいつらの理解など待つ必要はない」
声は低いが、背筋が凍るほどの圧があった。
「未承認薬のリストを持ってこい。
政府が封印したものも全部だ。“例の倉庫”にあるやつも含めて」
研究員の顔色が変わる。
「あれは……国家機密ランクSですが」
「知っている。だから俺が使うんだ」
神崎は、もはや国家の枠の中にいなかった。
「俺だけが、お前の“進化”を見届ける」
ガラスに額を押し当て、息が曇りを作る。
薄闇の中で、その声だけが生々しく響いた。




