【第25話】紋章
病室の廊下を曲がったその時、空気が変わっていることに気づいた。
人だかり。見慣れない男たち。
軍服――しかも、新国家軍の。
碧の足が止まる。
「……え?」
警備員のような男に制止される。
「この病室には入れません。移送の準備中です」
「移送……?誰が?海千留が?」
――どこに?
「回答はできません」
言葉が遠くなっていく中、廊下の奥で見えた。
ストレッチャーに固定された海千留。無言で、目を閉じている。
そして、その周りには白衣の人間と、黒服の護衛。
「ふざけんな!海千留をどこに連れていく!」
「こいつをどこかに連れていけ」
いとも簡単に剥がされる碧。
――幾つもの機器を付けられたまま、まるで“物”のように運ばれていく、彼女の姿。
海千留は眠っているかのように、一度も目を開けなかった。
碧は、そこから一歩も動けなかった。
声を出そうとしても喉が詰まり、息ができない。
海千留の部屋から持ってきた荷物が、音もなく、床に落ちた。
その時、誰かが近づいてくる足音がした。
周囲に指示を飛ばしていた男――新国家軍事圏の局長、神崎だった。
無駄のない動作で碧の隣に立ち、彼はしばし黙って海千留が乗せられた車両を見送った。
「……なぁ、少年。」
低く落ち着いた声で、神崎が言う。
碧は顔を上げることすらできなかった。胸の奥が焼けるように苦しい。
「なに? 君、もしかして...
あの子のこと好きなの?」
碧は答えない。ただ、茫然と立ち尽くしていた。
神崎は少しだけ、口角を上げたようだった。
「そいつは残念……だがな、坊や。
男なら、好きな子のことくらい、自分の手で守るんだ。
――ボーッとしてる時間なんてないぜ」
「…あなた、軍の人ですよね。
…海千留は、死ぬんですか?」
「それはわからん」
「どこに連れていかれたんですか……?」
一歩だけ、碧が神崎に詰め寄る。だがその声は細く、震えていた。
神崎は首を横に振る。
「そいつは言えない。命令でな」
碧は拳を握りしめ、うつむいた。
「こんなの……嫌だ……!」
その小さな叫びに、神崎の表情が一瞬だけ曇る。
「嫌なら、動け。
泣くだけじゃ、誰も助からない。」
それだけを言い残し、神崎は踵を返して歩き出す。
「泣いて世界が動くなら、戦争なんて起きちゃいないさ――」
床に落ちた荷物を踏まぬように、無言で通り過ぎていった。
残された碧の耳に、軍靴の音だけが遠ざかっていく。
***
碧は、気づけば海千留の部屋に来ていた。
あの日のままの部屋。
水の減った加湿器、読みかけの本、壁に貼られた小さなメモ。
その真ん中に、あいりゃがいた。
「……海千留、連れていかれた」
あいりゃは何も言わない。
「……俺、何にもできなかった」
碧の声は震えていた。自分が彼女の側にいて、何も守れなかった現実。
ただ見ていた。無力に。愚かに。
そんな自分に吐き気がした。
あいりゃは、じっと窓の外を見ていたが、やがて静かに立ち上がる。
「私、行ってくる」
「どこに……」
「あの子が連れていかれた場所、私、知ってる」
その言葉に、碧ははっと顔を上げた。
「どうしてわかるの?」
「新国家軍事圏の、中枢研究棟。私、行ってくる。」
止める言葉は出なかった。出せなかった。
何一つ、言えなかった。
「あいりゃ。海千留、生きてるよな?」
あいりゃは何も言わずに、頷いた。
「いってくる」
あいりゃの後ろ姿が消えていく。
碧はその場に座り込んだ。拳を握り、ただ、うずくまった。
情けなさと悔しさと、どうしようもない無力感が、喉元を締め付けていた。




