【第21話】海千留の病室
病室のモニターが、規則正しく呼吸のリズムを刻んでいた。
かすかにまぶたが動いた瞬間、碧は息をのんだ。
「ちる……! おい、ちる……! 聞こえるか!?」
すぐに看護師を呼ぶ間も惜しんで、彼はベッドに顔を近づけた。
やがて、ゆっくりと瞼が開く。 焦点が合うまでに数秒かかったが、その瞳が確かに彼を捉えたとき——
「……あおい」
それは夢のような、けれど確かに現実だった。 奇跡のように思えた。
「海千留!」
声が震えそうになるのを押さえて、明るく、普段通りに振る舞った。
「碧、そんな顔してどうしたの」
「なんでもねえよ」
病室の窓からは、季節外れの雨が降り続いていた。
——廊下。数時間前。
「見たこともない現象だ。この子には輸血をする事ができない....」
「……数値だけ見ても、彼女はすでに末期の段階です。ご家族を呼ばないと」
白衣の医師が小声で語る言葉を、碧は壁越しに聞いてしまった。
頭が真っ白になった。
碧は思わず飛び出し、どこに行く宛もなく歩いていた。
誰かが叫んでいた。いや、叫んでいたのは、自分の心だった。
「なんでだよ……!」
拳を握った。歯を食いしばった。何ひとつできなかった。
神様なんていない。
希望も、奇跡も、そんなもの信じられるわけがない。 それでも——
病室に戻ったとき、彼は何食わぬ顔で、海千留の枕元に座った。
「なあ、ゲームの続きやるって言っただろ?
セーブデータ、ちゃんと残ってるぞ」
「ズルい……先にやったでしょ」
「やってねえってば」
——ずっと待ってたんだよ、俺。
——言えてないことがある。
そう言いかけた言葉は、やっぱり、言えなかった。
碧は右手を握りしめる。
二人のやり取りは、普段と何も変わらなかった。
だけど、彼女の言葉ひとつひとつが、呼吸ひとつひとつが、
時間と引き換えに削られていることを——碧だけが知っていた。
ただ、時計の針だけが容赦なく進み、海千留の命を削っていく。
海千留は咳き込みながら、短い言葉をいくつか話した。
「海が見たいな...」
「この怪我が治ったら、一緒に行くか」
酸素マスク越しに、唇だけがわずかに動き、
海千留はいつも通りの笑顔になった。
こんな他愛ない会話さえ、
息継ぎのたびに海千留の体が軋むようで
碧は目を逸らす事しかできない。
海千留は食事を受けつけなくなっていたが、
碧には必死に隠していた。
海千留の皮膚は透き通るように白く、目の下には紫色の影が浮かぶ。
いつもと同じように穏やかな午後。
窓からは、うっすら潮の香りが立ち込める。
カーテンがふわりと揺れる中、海千留は、何気ない声でこう言った。
「碧。……助けてくれて……ありがとう……」
何でもない言葉。 何気ない感謝。
でも、その瞬間、碧の中で何かが音を立てて崩れた。
「ああ、バカ……。そんなん、言うなよ……」
微笑んだつもりだった。
でも、涙が出そうになって、彼は無言で立ち上がった。
「ちょっと……トイレ。すぐ戻る」
そう言い残し、碧は病室を飛び出した。
廊下の壁にもたれかかった瞬間、全身から力が抜けた。
気がつけば、拳を口元に押し当て、震える肩を必死に抑えていた。
「……なんでだよ……!」
「なんで、お前なんだよ……っ」
声が漏れた。 涙が、止まらなかった。
守りたかった。救いたかった。
どんなことをしてでも、この命だけは。
なのに——
何もできない。 自分の手は、ただ彼女の手を握ることしかできない。
「……俺は、何のために……!」
嗚咽が、空の廊下に響いた。
あまりに悔しくて、あまりに情けなくて、彼はひとり、そこに崩れ落ちた。
それでも彼は、数分後には涙を拭いて、顔を整えて、また海千留のもとへ戻っていく。
何もなかったように。いつも通りの顔で。
海千留は時々、どこか遠い場所を見ているようだった。
海千留の声は、風に溶けそうなほど弱くて、機械音の隙間にかき消された。
そして、その夜。
雨が止み、雲が流れた。月が病室の窓をうっすら照らす。
夜の静寂が病室を包み込んでいた。
薄暗い灯りの下、海千留の細い手が微かに震えながら、枕の上に横たわっている。
ゆっくりと窓が開き、人の形をした"何か"、あいりゃがそこに現れた。
人間の姿に近づきつつある彼女の眼差しは、どこか切なげで、深い覚悟に満ちていた。
あいりゃはそっと海千留の手を取る。
冷たくなったその手の温もりを感じながら、言葉を選んで口を開いた。
「みちる……」
「ん...お母さん...?」
微かな息を吐きながら、海千留が目を覚ます。
「え...誰...?」
あいりゃの人間の姿は、海千留にそっくりな姿だった。
「誰なの...? 私に、そっくり...」
海千留はあいりゃを見つめる。
あいりゃはわずかに口を動かし、かすれた声で答えた。
「...私、あいりゃ」
「え...っ?」
海千留は目を丸くして、あいりゃの真っ赤な瞳を見つめる。
「あいりゃ...なの?」
「うん」
「信じられない」
「あいりゃだよ」
「ついにそんな幻覚を見るなんて。私もそろそろ、潮時かな?」
「潮時なんかじゃない」
海千留はいつもの優しい笑顔になった。
「何でだろう...なんか、初めてな気がしない」
「毎日一緒にいたから」
「うん....あいりゃ……来てくれて、ありがとう……
海千留の声は弱々しく、それでもその言葉には深い感謝と愛情が込められていた。
「...あいりゃの姿、私にそっくり」
「私は海千留をコピーしていると思う」
「コピー?」
「私は"そういう風"に作られたの」
「"そういう風"に? そっくり過ぎて...まるでもうひとりの私みたい」
海千留の瞳はあいりゃの赤い瞳に吸い寄せられるようだった。
「まさかあいりゃと話ができる日が来るなんて思ってなかった。隣に座って」
海千留の優しい声。
「髪の毛、ボサボサ。これをあげようね」
海千留は引き出しからヘアピンを取り出し、あいりゃの前髪に付ける。
二人の間に優しい時間が流れていく。
「ねぇ、あいりゃ……私の名前、知ってる?」
あいりゃは小さく頷いた。
「みちるでしょう」
「祖母がつけてくれた名前なんだ。『海の千の留め石』って意味でね……」
視線は遠く、過ぎ去った日々の記憶を辿るように。
海千留はゆっくりと話し始めた。
「海のように広く深い心を持ち、
千の小石のように、
多くの、どんな困難にも揺るがず、留まる強さを持つように」
「おばあちゃんは言ってた。
どんな波風にも負けず、決して流されずにそこに留まる強靭さを表すの。
だからあなたは、
『どんなに辛くても、ここにしっかりと立っていなさい』って。」
彼女はかすかな笑みを浮かべながら、続ける。
「私はずっと病気で、身体が思うように動かなくて……
だけど、その名前のおかげで、諦めずにいられたの。
どんなに弱くても、小さな石でも、自分の居場所を守ることが大事だって。」
「だから、自分の居場所を作ろうと思った。配信も、そのひとつだった」
「配信の人たちは、元気かな?
リスナーのあの子たちは、元気かなぁ?」
「あいりゃに出会う前の私は、ずっと体が不自由で……動けなかった。だけど……」
「あいりゃに出会ってからは、
友達が出来たみたいで、嬉しかった。
私は、あいりゃの居場所になれたかな?」
海千留は言葉を詰まらせながらも、ほほえむように続けた。
あいりゃは胸が熱くなり、静かに涙をこぼした。
「どうしてこんな話するの」
「別に。話したくなったから。
私のそばにいてくれて、本当にありがとう...」
海千留は、かすかに目を閉じて息を整えた。
そして、震える声で言葉を紡ぐ。
ーーー怪我した時、遠くの方で私の名前を呼ぶ声が聞こえてた。
あいりゃの声に似てる。多分、あいりゃだったんだ。
「……あいりゃ……人間を……殺さないで……ね……」
その言葉は、優しく、そして切実だった。
「どうしてそんな事言うの?!」
海千留は優しく微笑むだけだった。青白い顔をして、呼吸をするだけ。
「海千留は何を知ってるの? 私はどうしてーーー」
病室に鳴り響いたのは、ひとつのアラーム音だった。
けたたましく、鋭く、耳を突き刺すように。
バイタルのモニターには異常な波形。脳波はすでに、ほとんど沈黙している。
二つ目、三つ目と、警告音が重なっていく。
二人の時間はゆっくりと終わりを告げ、海千留は瞳を閉じた。
眠っているようだった。
医師と看護師たちが駆け込んでくる。
「海千留さん!聞こえますか?反応してください!」
何が起きているのか、すぐには理解できなかった。
目の前で揺れる白衣、忙しなく動く手、叫び声、警報――
そのすべてが、遠く、滲んで、聞こえなくなっていく。
「……脳波、完全に停止。確認しました」
医師が告げると、室内は一瞬で静まり返った。
「こんな症状見た事はない。まるで脳死状態です!」
あいりゃは何も言えず、ただ影に隠れて、海千留を見つめる。
微かに笑っているような、その穏やかな寝顔を。
アラームは鳴り続けていた。
いつまでも耳の奥で鳴り響いて、止まらなかった。




