【第18話-02】祈りの歌
風が吹き抜けた。
黒く焼けただれた地面の向こう、何もない空と、何も残らない大地。
瓦礫と灰。すすけた空。
それでも、自分の肌は異常な速度で再生していく。
自分の身に何が起きたのかわからない。
気付いた時には、馴れない人間の姿になっていた。
「私は……何なんだろう……」
ぼんやりと呟いたその声すら、自分のものではないように思えた。
誰かの命が消えて、誰かが泣いているのに。
私は、どこにも痛みを感じていない。
けれど——
胸の奥だけが、ひどく冷たい。
そのまま、空へと跳んだ。
加速装置が発動する。空気が押し返してくる中、あいりゃは振り返らず、燃えた街を離れた。
どこへ行く。
戻れる場所など、あるわけがない。
兵器として人を殺した自分を、迎えてくれる場所なんて——。
それでも。
気がつけば、指先はあの座標を入力していた。
あの家で、海千留が待っているような気がする。
やがて、夜の街の灯りが見えてくる。
戦場とは別世界の静けさ。誰もが眠る、日常のまどろみ。
瓦礫に埋もれた扉を開ける。
玄関の暗証番号は変わっていなかった。
まるで、何も起きていないかのように。
だが自分の手のひらには、焦げた血の跡。
爛れた皮膚が再生しきれず、皮膚と筋肉がむき出しのままだ。
そのまま、部屋に入った。
その瞬間だった。
「……私、どうしてこの家に戻ってきてしまったんだろう……」
自分でも気づかぬうちに、声が漏れた。
——殺してきたのに。
——あんなふうに罵られたのに。
——私は、ここに来てはいけなかったのに。
それでも、ここに帰ってきてしまった。
「……海千留は、どこ……?」
誰に問うでもなく、震える声でそう呟きながら、部屋を彷徨い歩く。
敵機の攻撃を受けた海千留の体が、無事でいるはずがない。
リビング、キッチン、トイレ、風呂場……。
その姿は、どこにもいない。
海千留がいたベッドにうずくまる。
彼女の布団へと滑り込む。
電源が入ったままのPCモニターに、海千留の姿が映っていた。
光の滲むモニターに手を伸ばす。
————帰る場所なんて、ないはずだった。
それでも、あの声が聞きたかった。
再生ボタンを押す。
「おつかれさまでしたーっ!今日も観に来てくれてありがとうねっ!」
その声が、心の奥に染み込んでいく。
人殺しと罵られた身体に、唯一、許しを与えてくれるように。
————「あいりゃと話せたらよかったのにね」
そう言って笑っていた、海千留。
あいりゃはさらに、再生ボタンを押す。
モニターの光が、部屋の暗がりにやわらかく広がっていた。
配信のエンディングロールに、ふいに差し込まれた一曲。
海千留の歌だった。
アーカイブには、彼女が投稿したまま、忘れられたように眠っていた短い歌。
——明日があるなら、何を願う?
かすれるような声。それでも、まっすぐに。
空気を震わせるように、命の限りを込めて、ただ「明日」を願う歌。
海千留の体は、弱かった。
きっと長くは生きられない。
それを知っているからこそ、彼女の声には祈りが宿っていた。
明日を迎える人に、明日が訪れますように。
画面の中で、彼女は微笑みながら歌っていた。
あいりゃの目に、ぼろぼろと涙があふれた。
自分の手は、さっきまで誰かの命を奪っていた。
それなのに、彼女の声は、そんなあいりゃを拒まなかった。
「明日」を願うその歌は、まるであいりゃに向けて放たれているかのようだった。
「……どうして……そんなに……」
言葉にならない感情が、声になって震えた。
そのときだった。
ふと、枕元に視線を落とすと、そこにひとつだけ、押し花になった四葉のクローバーがあった。
古びた、色あせた緑。
だけど、それは確かにそこにあった。
願い。
彼女は言っていた。
「四葉を見つけたら願いが叶うんだよ」って、笑っていた。
あいりゃはそっと、それを手に取った。
願う。
願ってしまった。
この命が何に汚れていようと、もう一度、海千留に会いたいと。
そして、次の瞬間。
あいりゃの眼に、明確な「位置データ」が浮かんだ。
通信波形、デバイス履歴、GPS断片、残された配信ログ。
彼女の意志とは無関係に、体内の演算機構がそれらを繋ぎ、特定する。
海千留の現在位置——病院座標、取得完了。
「……海千留」
ゆっくりと立ち上がり、窓へと歩いた。
窓を開けると、まだ街は静かで、夜風が髪を揺らした。
クローバーを胸元にしまい、あいりゃは足元のブースターを展開する。
軽やかな音と共に、床を蹴った。
風を切って、夜空へと舞い上がる。
眠る街を見下ろしながら、彼女はまっすぐに飛んだ。
涙の跡を残しながら。
それでも、初めて「生きる」という方向に、自分の意志で飛んでいた。