【第1話】No.101 ― 檻の中の、知性
かつて、この惑星は“青い星”と呼ばれていた。
今や、表層の78%の海洋が汚染され、海は「死の水域」に分類されている。
人類は海に入ることも、海水に触れることさえも出来ない。
この広い海の先に、
地球上で唯一、「生命の再生力」を保持する最後の場所がある。
それが、“残された海”“核域”と呼ばれる場所だ。
聖水が存在する唯一の場所。
汚染されていない水はここだけで、人類にとっては生命維持に必須である。
この“核域”を目指して、人類は、新たな兵器を生み出し続けている。
その猫は——名など与えられていない。
研究員たちは彼女を、ただ「No.101」と呼んだ。
――脳髄に、また針が刺さる。
(痛い!)
「また目を開けたわ、No.101。
今度は十六時間連続の覚醒ね。記録更新だわ」
白衣の女が笑う。
頬が朱に染まっているのは、さっきまで幹部室で上官に可愛がられていたせいだ。
「上の連中は新たな戦術を模索してる。決定的な戦力差がないと、次は勝てない」
「この猫は死の水域に耐えられるわよ。戦術には使えないけど」
透明なゲルで満たされた培養槽の中。
小さな猫が、苦悶の表情で身をよじった。
(痛い…どうして私は…!)
本来なら愛玩動物として人間に可愛がられるだけの存在だった小さな生き物に、人類最先端の遺伝子編集と神経制御ナノマシンが埋め込まれている。
眼球の奥に走る閃光のような痛みは、第三次投薬処理に伴う神経強化プログラムの副作用。
――研究員たちはそれを“進化痛”と呼んだ。
(こんな場所で、私は、いつまで...?)
ゲルで満たされた培養槽の中。動かない猫。
猫のような、生物。
黒いスーツの男はその横で無言のまま観察装置に目を落とす。
ここは新国家軍事圏・第十一生体兵器研究棟。
高度AIによる情報監視と統制のもと、兵器の開発が極秘裏に行われている。
閉ざされた白い部屋の中で、静かに目を開けた。
四方を囲むのは、無機質な金属と硝子。
その床には消毒薬の匂いが染みつき、空気は妙に乾いている。
天井には監視カメラと、低く唸る換気口。
まるで、命を記録するだけの空間のようだった。
「笑わないで、橘主任。ただの動物じゃない。」
「今のこいつの脳内電位、三歳児並みの認知処理が可能だ。いや、それ以上かもな」
「でも猫よ?」
「……たまたま“猫”の姿をしているだけだ」
遺伝子配列、ストレス耐性、そして脳波活動の異常なパターン。
その猫は人間では到底成し得ない“適応”の資質を、持っていた。
モニターの中の小さな体が、じっとこちらを見返している。
まるで言葉を理解しているかのような眼差しで。
「……」
「ふふ、猫は可愛いわよね。"猫"は。」
「……くだらん感傷はやめろ。こいつは兵器だ」
主任の手が橘の首筋を撫でる。
次の投薬スケジュールを確認するように言いながら、彼女の白衣の下へと手を滑り込ませる。
「No.89、No.90はもう処分したのか?」
「アレは失敗作だった。今度こそやり遂げてみせる」
楠は投薬数値を上げる。
モニターの中の小さな猫が、再び痛みに身を震わせた。
(痛い…!)
(私は何のために…耐えているの)




