【第16話】開かない瞳
空がまだ赤く染まっていた。
煙の匂い。瓦礫の熱。
重苦しい空気の中、少年は走っていた。
「どこだ……どこにいるんだ……!」
戦場の轟音を聞いた時、彼の体は勝手に動いていた。
名前を呼ぶ声、救護の叫び、誰かの泣き声。
全てが耳に入らなかった。
少年の胸の奥には、ひとつの願いしかなかった。
どうか、生きていてくれ。
——少年の目に、見慣れた姿が映った。
いつも当たり前に見ていた声が、
当たり前の表情が、とても遠く、ひどく懐かしく
間違えようがなかった。
彼女がいた。
焼け焦げた瓦礫の間。
血と灰のなかに倒れ、右腕は砕け、服は裂け、全身が傷だらけだった。
でも、確かに——彼女だった。
目を閉じたまま、かすかに胸が上下している。
「……!」
少年は駆け寄った。
崩れかけた建物の陰に、少年はしゃがみ込むようにして、彼女の身体を支えていた。
熱い。手に伝わる体温が、まるで灼けた鉄を抱えているかのように思える。
「……しっかりしろ……今、今誰か呼んでくるから……」
そんな言葉を口にしながら、呼べる誰かなど、もうこの街にはいないと分かっていた。
爆音はやんだ。空は赤い。灰が降っているのか、それとも何か別のものか。
周囲はあまりにも静かだった。
さっきまで人の悲鳴や破壊の轟音が渦巻いていたはずの街が、今はまるで、何もなかったかのように沈黙している。
「……嘘だろ……」
彼は呟いた。
自分が立っている場所が、かつての日常だったなんて、信じられなかった。
少女のまぶたが、うっすらと動いた。
少年はその顔をのぞき込む。
「……おい、わかるか……」
少女の唇が、わずかに開いたが、声にはならなかった。
いや、声にするだけの体力がもう残っていないのだろう。
血が、胸元を濡らしている。
その傷口は、まるで何かに貫かれたような形だった。
「何だよ、これ……くそ……誰が……誰がこんな……!」
振り返っても、そこに敵の姿はもうなかった。
ただ、どこかで聞こえる風の音と、瓦礫の崩れる乾いた音だけが、彼の耳に残る。
こんな場所で、死なせるのか。
怒りでも悲しみでもない。
それはただ、無力感だった。
何もできなかった。
誰も守れなかった。
自分一人が、こうして生き残っていることすら、罪のように思えた。
彼女の指が、かすかに動いた。
何かを、探すように。誰かを、求めるように。
膝をつき、震える手でその顔を撫でる。
熱い。こんなにも熱いのに、彼女の手は冷たい。
「おい……っ、なぁ、目、開けろよ……!」
少女のまぶたがわずかに揺れる。
口元が、うっすらと動いた。
「……いた……の……?」
その声が、少年の心を貫いた。
言葉が出ない。
ただ、涙が零れた。
「バカ……お前……なんで、ここにいんだよ……!」
震えながら言ったその言葉は、怒りじゃない。
怖さだった。
このまま彼女が——消えてしまいそうで。
「待ってろ!
今、すぐ医者呼ぶから。
すぐ連れてくる。絶対、死なせねぇからな……!」
彼は何度も立ち上がろうとする。
でも、彼女の手が、力なく彼の服を掴んだ。
「……行かないで……」
かすかな声。
それは、命を繋ぎ止めるか細い糸。
少年の心が張り裂けそうになる。
「……わかった、行かない。行かねぇから……だから、だから……」
言葉がつっかえる。
こんな時、どうすればいいのか分からなかった。
助けたい。
助けられないかもしれない。
でも見捨てるなんて、できるわけがない。
「……怖いんだよ、俺……」
涙を流しながら言う。
彼女の前で、こんなに情けない声を出したのは初めてだった。
「お前がいなくなったら……俺、何していいかわかんねぇんだよ……!」
少女は目を閉じたまま、薄く笑った。
頬に涙が伝っている。
「……強くなったね……昔より……ずっと、やさしくなった……」
「やさしいんじゃねぇよ……お前だからだよ……」
少年は、彼女の額に額を寄せる。
唇が震えていた。
言いたかったことが、何千回もあった。
でも、今言うべき言葉は、たったひとつだった。
「……死なないでくれ」
目の前の少女は、まだ生きている。
そのことが、希望でもあり、地獄でもあった。
彼女がこのまま死ぬかもしれない。
彼女が助かるかもしれない。
その「かもしれない」にすがることでしか、少年は立っていられなかった。
目の前にある命が、
この手で繋がるなら、何だってやる。
そう思いながら、少年は何度も何度も少女の名前を呼んだ。
彼女が、目を覚まし続けられるように。
心が、ここに留まり続けられるように。
ただ、涙を流しながら祈った。
「お願いだ……もう少しだけ……耐えてくれ……っ」
その時だった。
灰煙の向こうから、野太い声が何度も飛んできた。
「生きている人はいませんかー!生存者はいませんか!?」
「こちら救護班!動ける方は声を出してください!」
「負傷者の発見を最優先!意識の有無を確認しろ!」
——来た。
誰かが、ようやく来た。
少年は反射的に立ち上がり、叫んだ。
喉が裂けそうなほどの声で、全身の力を振り絞って。
「彼女は生きている!ここだ!ここにいる!!」
がれきに覆われた少女の体を覆いながら、叫び続けた。
もう一度失いたくなかった。
間に合ってくれ、と祈るように。
砂埃を上げて駆け込んできた一人の自衛隊員が、少女に駆け寄った。
その顔が、一瞬で硬直する。
「右腕骨折、胸部内出血の兆候。呼吸微弱。メディック、ストレッチャーを!」
無線が飛び、即座に担架が運び込まれた。
少女の体が優しく持ち上げられた瞬間、彼女の口元から小さく息が漏れた。
「……っ、助かるんですか……彼女……」
少年の声は震えていた。
自衛官は、その瞳を一度だけ見つめて言った。
「——ここで見つけられたのなら、まだ間に合う。急ぐぞ!」
ヘリの中。
轟音と振動に包まれた密室で、医師たちが少女の処置にあたっていた。
酸素マスク。心電図。
出血箇所を圧迫しながら、薬剤が次々に投入されていく。
少年は、少女の手を両手で握っていた。
ただ、それしかできなかった。
「なあ……聞こえるか……?
まだ、言ってないことが……あるんだ……」
彼女のまぶたがわずかに震えた気がした。
けれど、それ以上の反応はない。
「お前が目を覚ましたら、ちゃんと言う。
ずっと……言えなかったこと、全部。
だから……もう少しだけでいい。……戻ってきてくれ」
無力感が喉を締めつける。
彼女の手は冷たくなり始めていた。
それでも少年は離さなかった。




