【第12話】眠りの終わりに
朝。
陽だまりの中で、あいりゃは尻尾を丸め、布団の上の海千留の背に寄り添っていた。
そのぬくもりが好きだった。
この人間は弱い。でも、やさしい。
餌をくれて、撫でて、時々泣いた。
今日は、早くに家を出た。
「すぐ戻るからね」と言っていた。
あいりゃは寝返りの余韻だけを残した布団の上で、少し不安そうに丸くなった。
都会の空が、異様に静かだった。
ビルのガラスが、妙に光を吸っていた。
いつものように窓から外を見ていたあいりゃの耳が、ピクリと揺れる。
「……音が、ない」
そう思った瞬間、遠くの高層塔が、青白く光った。
爆発音はない。ただ、振動とともに世界が一瞬止まったようだった。
テレビが止まり、電子音が消え、壁の時計が針を止めた。
EMP。 ——人間たちが作った、音のない攻撃。
「海洋再生能力は限界に近づいており、これ以上の軍事活動があれば次世代酸素供給系統が崩壊する。
特に沿岸核実験、原子力艦の展開、EMP兵器の使用を即時停止せよ。
応じなければ、全海底通信線を遮断する」
旧国家は「限定的な通信遮断作戦」を計画。
旧国家が保有する戦術ドローン「VT-03スレッドハウンド」に、
地上・海中両対応の低出力EMP弾《ヴォルタS3》を搭載。
目的は、新国家が使用している“海底通信ノード”の機能調査と警告。
「違法な周波数帯での通信があり、海洋勢力との軍事協定が交わされている疑いがあった。
国際法上の技術確認を行ったにすぎない」
だが実際は、新国家の都市ネットワークを試験的に撹乱し、新国家側の“警戒度”を計るための探りであった。
新国家軍事圏は「海洋連絡に一時応じる」との声明を発表していたが
「そんなのただの建前。時間稼ぎだ」
旧国家軍事圏は「非国家勢力に安全保障を語る資格なし」として、新国家軍事圏の提案を即時拒否。
「我々は海洋勢力が裏で結託し始めた気配を察知している。先制して牽制したい」
「低出力EMP弾を使用」
「小型ドローン、起動」
EMPは直接的な破壊力はなく、
電子機器の一時無力化を目的とする非殺傷兵器であった。
この攻撃により、都市の病院や通信インフラが一時麻痺。
そのとき、海千留は薬局にいた。
定期的に受けている神経系の検査と、心肺機能の投薬。
けれど、一瞬で建物内の全ての電気が止まった。
非常電源が点いた頃には、頭部をぶつけ、額から血が流れていた。
でもそのときには、都市の交通はもう止まりかけていた。
街はパニックになっていた。
新国家の治安ドローンが出動し、空を旋回する。
軍部が管轄を乗っ取る形で、非常警戒区域が設定される。
「旧国家による都市部への兵器攻撃が確認された」
「EMP弾頭、《ヴォルタS3》型」
「我が国は正当防衛の下、報復を——」
官僚たちの言葉が交錯する中で、新国家は内部分裂を始めていた。
政府の“抑制派”は「外交的非難に留めるべき」とし、軍の“強硬派”は「即時反撃」を主張。
その間に、市民は逃げ惑い、都市は騒然となった。
——海千留の部屋。
部屋の中は、もう、音がしなかった。
海千留の残した湯のみは、まだ少しだけ温かい。
壁に吊るされたカレンダー、今日の数字だけが赤く囲まれている。
「定期検診」——あの人がそう言っていた。
あいりゃは、窓辺にじっと座っていた。
いつもなら、帰ってくる時間だ。
でも、時計の針はずっと、重く遅いまま、進もうとしない。
……あの人間が、帰ってこない。
彼女はずっと待っていた。
耳を澄ませても、あの足音がしない。
窓の外に、ステルス機が通っていくのが見えた。
窓辺に立った時、風の中に、嗅ぎ慣れた臭いがあった。
——それは、血の匂いだった。
落ち着かない。 “猫”なら、ここで寝て待っているはずだった。
だが。
彼女は、立ち上がった。
足音はない。 軽やかに、玄関の方へ歩く。 爪は出さない。音を立てないように。
海千留のスリッパが、揃えて置いてある
その隣に、小さな足跡が並ぶ。
ドアの前で、一度だけ振り返る。
誰もいない部屋。
「…………」
ドアに前足をかけ、少しだけ開く。
外の空気は、かすかに焦げた匂いがしていた。 遠くで、何かが壊れる音。
そのとき、あいりゃの目が鋭くなった。
“彼女”の中の、知らない感情が、ゆっくりと目を覚まし始めていた。
ドアが開いた瞬間、あいりゃは飛び出した。
——あいりゃは、外へ出た。
街には、人間が倒れていた。
誰も彼も、走っていた。
遠くで黒い煙が上がっている。
風の中に、あの人の匂いが混ざっていた。
猫の脚力で、あいりゃはビルの屋根を駆ける。
街角では、子供が泣き叫ぶ声に溢れていた。
でも止まらなかった。
都市はすでに、戦火の入り口にいる。
空に浮かぶ監視衛星が、赤く点滅していた。
あいりゃの瞳が、その瞬間、かすかに光を宿した。
猫としての直感を超えた、“何か”が目覚め始めていた。
街が燃える。 人が叫ぶ。
その混沌の中、あいりゃは、海千留を探して走った。