【第11話】命日
校庭の隅に置かれたサビた鉄棒。
陽の光に焼かれた砂。
風鈴のように響く笑い声。
夏休み前の学校には、どこか浮ついた空気が漂っていた。
教室では冷房が弱く、教師の声は汗と混ざって遠くへにじんでいく。
「碧。今日も海千留のとこ行くの?」
「あぁ」
この教室に海千留はいない。
体の弱い海千留は、ひとり、長い夏休みを過ごしているようだった。
放課後、駄菓子屋に立ち寄った碧は、海千留の自宅に向かった。
海千留はベッドの上であいりゃとチューペットを分け合っていた。
「何してんの?」
「あいりゃが食べるかなって」
「猫にそんなもん与えるなよ」
あいりゃは海千留の肩に乗ったまま、じっと碧を見ている。
「いいじゃん別に」海千留の部屋は、夏を感じない温度で保たれていた。
「窓、あけるよ」
「ええ!暑いじゃん!」
窓の外は、風も音もない空だった。
だが、確かに何かが通り過ぎた。
あいりゃの瞳が細くなる。
ステルス戦闘機。
人間には気づけない、わずかな空気の振動。
あいりゃは動きを止め、その目で追った。
周囲の誰もが日常に没頭する中、空の向こうで何かが、静かに蠢いていた。
「俺、今日はもういくわ。」
「え、もう?」
「顔見に来ただけだから」
「そっか」
「高台に行かないと。」
今日は碧の兄、翔の命日だった。
高台の草むらで、碧は座って海を見下ろしている。
「この海ってさ……いつまで青いままでいてくれるんだろうな」
碧がつぶやく。誰に向けた言葉でもなかった。
「兄ちゃんが、最後に見たのも、この景色だったのか……」
彼のつぶやきには、何の目的もなかった。ただ感情の、さざ波だけがある。
碧の兄は、旧国家軍の兵器パイロットだった。
海域防衛戦の途中で消息を絶った。
碧にはまだ、彼が死んだという実感がなかった。
その夜、町の一部で通信が不安定になり、噂が広がっていた。
「未確認飛行物体が出たらしい」と。
碧はすでに眠っていた。
海千留も夢の中。
あいりゃだけが静かに起き出し、縁側から屋根にに出た。
波の音が、耳の奥にじんわりと染みてくる。
だがその中に、機械のようなノイズが混じる。
聴いたことがない、けれど、どこか知っている音。
その時だった。
空を、再び、ステルス戦闘機が横切った。
今度は、低空だった。風がざわめき、空気が震えた。
あいりゃの目が、鋭く光る。背中の毛が逆立つ。
心の奥に、黒い波が立ち上がる。冷たい、けれど、熱いもの。
──殺意。まだ輪郭のぼやけたそれが、ゆっくりと芽を出し始めていた。
けれど、その感情に抗うように、海千留の寝息が、遠くから聞こえた。
海千留の寝返りの気配。あたたかい日常。
あいりゃは、遠くの波の音に耳を澄まし、立ち尽くしていた。