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贖いの檻で嗤う堕天

──第八刻、第十五分。天界すら目を逸らした冥府の帳が、再びこのファミリアに降り立った。


照明は微かに明滅し、蛍光灯は悲鳴のように唸りを上げる。空気は湿って重く、まるで過去に封印された呪詛が今なお空間に浸透しているかのようだ。天井の配線は絡まり、壁の落書きは封印を忘れられた古代文字のように這いずっている。そこには怒号、諦念、そして赦されぬ祈りが焼きついていた。足元の床は油と塵に染まり、まるで時を止めた沼地──来る者を呑み、過去へと引きずり込む。


その空間に、ひとつの足音が混ざった。


扉がきしむ。現れたのは、黒のパーカーに身を包んだ影。フードは深く被られ、顔の半分以上が闇に沈んでいる。だが、その佇まいだけで分かる。──この男、“既に線を越えた者”だ。


彼は辺りを警戒するように視線を這わせる。右手には汚れたボディバッグ、左の袖からは包帯が覗いている。靴にはまだ乾かぬ泥と、見慣れぬ紅い痕。そこから漂う微かな揮発臭は、火薬か、あるいはガソリンの気配。


逃げてきたのではない。“何かを壊し、何かを背負って、ここに流れ着いた”。


男は無言で『ジェノサイドストライカー』の筐体に座り、50円玉──冥府への入場金──をスロットに滑らせる。


カチャン。


選ばれたのは『カイン=ダスク』。封印の刻印を両目に刻み、灰色のコートをまとった“堕ちた処刑人”。彼の刃は贖罪の象徴、彼の存在は断罪の記録。秩序に背を向けたその姿は、まさに“影の審判官”。


その性格は冷徹にして無慈悲。だがその裏には、“裁かれざる者が自らに下す罰”としての戦いが存在していた。


俺は煙草に火を点け、ゆっくりと筐体の後ろへと歩み寄る。


──ようこそ、“贖えぬ夜”へ。


カイン=ダスクが静かに動き始めた瞬間、画面の中で空間が凍りついた。


彼の操作はまさに“執行”。技の一撃一撃が、まるで律儀に編まれた詩の一節のように連なっていく。回避ではなく拒絶、攻撃ではなく裁断。すべての挙動に“感情”という雑音が存在しない。


──だが、見える。


その無機質な精度の奥に、“自罰の祈り”が染み込んでいることを。


彼は敵を斬っているのではない。

己の過去を、己の選択を、そして己自身の存在を否定するために、このゲームの中で“再現”を繰り返しているのだ。


勝利しても、彼の指には何の高揚もない。

敗北しても、悔しさの欠片すら浮かばない。


ただ、繰り返す。延々と。


これは戦いではない。

──儀式だ。


過去に背を向け、未来を拒絶し、それでも現世から堕ち切れぬ者の“存在の再確認”。


まるで彼は言っているようだった。

『俺は、生きていていいのか?』と。


それは、逃げの問いではない。叫びだ。

誰かに赦しを乞うのではない。“自ら赦されぬ自分”に問い続けるための、呪いのような試練。


──まったく、面倒な魂だ。

だが、それがいい。俺の好物は、そういう魂だ。


煙を吐き出しながら、俺は思考の刃を抜き放つ。


──さあ、切り裂こう。その呪いの根源をな。


「いいか、聞け。業火に焼かれし魂よ……貴様は今、終わりなき懺悔という名の深淵に、己を閉じ込め続けている。だがな、それは“救い”ではない。“呪い”だ」


男の手が止まる。筐体の静寂の中、彼の呼吸だけが濃密に、ファミリアに満ちていく。


「貴様は赦しを求めてなどいない。罰を望んでいる。それも、他者からの制裁ではなく、自らが自らに刻み込む“終わらぬ咎”を──」


「……それがどうした。俺は……許される価値なんて、最初から──」


「否。価値とは与えられるものではない。刻むものだ。貴様の呼吸、思考、鼓動──すべてが“まだ続く”ということを、この世界に刻みつけろ」


「でも、俺は……壊した。取り返しのつかないことを、した……」


「ならば、尚のこと歩め。取り返せぬのなら、別の形で“塗り替えろ”。罪を抱いて進む者の歩みは、やがて誰かの灯火となる」


「そんな綺麗事を、信じられると思うか……!」


「信じろとは言わぬ。だが進め。それが唯一、過去に抗う手段だからだ。貴様の刃が斬るべきは、もはや敵ではない。“停止”だ。“諦念”だ。“自己否定”という名の牢獄だ」


「……そんなもん、切れるわけが──」


「ならば俺が見せてやる。“切れる”と信じる者の在り方を。貴様の魂はまだ鈍ってなどいない。むしろ、ここに至るまでに、誰よりも鍛え上げられている」


「……っ……」


「俺は見ていた。貴様が斬ってきたすべてを。だから言える。貴様はもう、贖罪の中に沈む亡者ではない。自らの足で“贖罪を超える者”だ」


しばしの沈黙が筐体を包み込む。


男はゆっくりとレバーから手を離し、深く息を吸った。


まるで長い潜水から浮上した者のように、彼の肩がわずかに震えた。彼は立ち上がり、筐体に背を向ける。その動作には、かつての警戒心はなかった。否、完全に消えたわけではない。だがその足取りには、確かに“意志”が宿っていた。


彼は扉の前で立ち止まり、しばし沈黙したまま天井を仰ぐ。


「……あんたの言葉で、何かが変わるってわけじゃない。でもな……久々に、誰かに“人”として見られた気がした」


その声は、拙く、震えながらも、確かに真実の破片を孕んでいた。


「……また来る。罪が俺を追ってこないなら、いや、追ってきても……今度は逃げねぇよ」


そして扉を押し開け、夜の深淵へと消えていく。


その背中には、もう“逃走者の影”はなかった。


代わりにあったのは──薄明の彼方へ踏み出そうとする、ひとつの魂の歩みだった。


俺は静かに煙草の火を揉み消し、黒灰となった先端を見つめながら、沈黙に溶け込むように呟く。


「──裁かれぬ者よ。貴様の歩みは、もはや贖罪の巡礼ではない。それは“業火を越えた者”にのみ許される再誕の序章。


世に許されぬ者は多い。だが、己を許さぬ者は更に深い地獄を彷徨う。貴様はその地獄から、ただ一つの意志だけで這い上がった。赦されずとも、赦さずとも。──それでもなお、歩む者として。


このファミリアは地獄の底などではない。これは、魂を焼くる“再鋳炉”。この場所において、咎ある者もまた、“再構築”される。貴様の一歩はその証明だ。


誰に名を知られずともいい。誰の記録に残らずともいい。だが俺は、覚えている。


この夜、“生きている”と叫んだ刃があったことを。


それこそが──赦されざる者に許された、唯一の証だ」

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