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仮面に裂け目が入る夜

──午後十時二十九分。


ファミリアは、今宵もまた異界の鼓動を響かせていた。蛍光灯のちらつきは定命の星の痙攣、電源コードの唸りは地下を這う亡者の呻き。全てが“終末の稽古場”としての存在を静かに誇示している。椅子のクッションは潰れ、誰かの夢の形跡を押し返すこともなく沈んでいた。天井からは古びた配線が垂れ下がり、BGMは機械の呻きと混じってノイズ混じりの呼吸を続けていた。


ここは、現世から見捨てられし者たちが最後に辿り着く魂の停留所──否、それすらも過ぎた先にある“魂の火葬場”。時間も、情も、理も、すでに蒸発して久しい。


扉がゆっくりと開く音。


現れたのは、丈の合っていない学生服を纏った少年だった。肩からずり落ちそうなブレザー、袖口から覗く傷だらけの手首、ネクタイは緩く結ばれたまま首元を漂っている。髪は寝癖混じりで、左右非対称に跳ね上がり、額に貼りついた前髪の下に覗く瞳はどこか遠くを見ていた。


鞄は持っていない。右手にはコンビニの袋。中身は、やけにボコボコに凹んだ缶コーヒーと、安っぽいスナック菓子。だが、そのどれもが、彼にとっては“儀式”のように見えた。毎日繰り返すことで、己の存在を辛うじて確認するための──自己確認の呪術。


そして、最も印象的だったのはその顔──作り笑いの奥に潜む、明らかな“壊れかけ”の気配。目元は笑っているが、目の奥では泣いていた。口元は上がっているが、頬は震えていた。笑いという仮面の裏に、本心を押し込める“未完の道化”がそこにいた。


彼は吸い寄せられるように筐体へと向かう。


50円玉を取り出し、コインスロットへと差し込む。


カチャン。


キャラクターセレクト。


彼が選んだのは『ナズナ=グリム』──呪詛を操る道化の幻影。


カラフルなピエロスーツに、顔には常時固定された笑顔の仮面。全身から不気味な風船を浮かべ、相手の動きを狂わせながら舞う。


その正体は“悲劇の記憶”を喰らって生きる存在。笑っているのに、ずっと泣いている。騒がしいのに、誰より静かな孤独を抱えている。


俺は、静かに煙草に火を点け、闇の中から歩み寄る。


──仮面の下にある顔を、俺に見せてみろ。


ナズナ=グリムの操作は、まるで道化芝居の幕開けのようだった。だがそれは滑稽ではない。むしろ“滑稽に見せかけた哀悼”だった。


彼のプレイは徹底して“軽さ”を演出している。連続ステップ、フェイント、奇抜なタイミング──まるで戦っていないかのような軽快さ。だが、俺の眼は誤魔化されない。


それは演技だ。嘘だ。


その裏に張り詰めているのは、強烈な緊張と計算。見られていることを強く意識した“セルフ演出”。つまり、彼は自分の戦いを「他人にどう見られるか」で構成している。


──貴様は、自己を笑いの仮面で塗り固め、他者の目から逃れようとしている。


なぜなら、貴様は“本当の自分”を晒したとき、否定された過去を持っているからだ。


貴様の中には記憶がある。素直に話した何か、夢を語った何か、あるいはただ普通の気持ちを打ち明けた何か。だが、それは“笑われた”か、“無視された”か、“茶化された”。だから、貴様はそれ以来、自分を「ギャグ」に変換する術を学んだのだ。


誰も傷つけないように。

誰にも期待されないように。


そうして仮面を被り続けることで、己の“中心”を隠し続けた。それは、傷を隠す最良の盾であり、最悪の呪いだ。


ナズナ=グリムの動きは派手で、笑える。だが、コンボを終えるたびに、彼のキャラクターが微かに“怯えている”ように見えた。


技の出し切りを避ける。超必を決めない。ゲージを溜めては、使わない。


──本気を出して“負けたとき”が怖いのだ。


だから彼は、勝っても“ふざけた勝ち”を演出する。負けたときは“ネタ”に逃げる。そのすべてが、ただ一つの真実を語っていた。


「俺は、誰にも本気で否定されたくない」


それが、彼の呪い。そして今、俺の前でそれを晒してしまったことこそが、彼の“無意識の願望”だった。


──誰かに、仮面の裏を見てほしい。


だが、それは“救い”を乞う声ではない。むしろ──“存在を肯定されたい”という渇きの咆哮だった。


彼の中では、本気で挑んだ過去と、それが打ち砕かれた記憶が、今なお劫火のように燃えている。たった一度の否定。それが“世界全てに拒絶された”ような錯覚を生み、今なお彼を縛り続けているのだ。


ナズナ=グリムは戦う。だがそれは“勝つため”ではない。“自分がここにいる”という証を、せめて画面の中にだけ刻むためだ。


その姿は滑稽で、哀しく、そして──美しい。


笑顔の仮面を付けたまま、戦場に立ち続ける魂の、その孤高。


俺の中に、確かな確信が芽生えた。


この少年は──いつか、自らの手で仮面を砕く日が来る。


「──その願い、受け取った。ならば、いまこそ聞け。“仮面に呪われし者”よ」


少年の指が一瞬止まり、レバーが微かに揺れる。が、それを誤魔化すように大げさにあくびをした。


「……何? 店長の芝居始まっちゃった系? 長台詞ならポップコーン持ってくるけど?」


「貴様は笑っているが、心は泣いている。冗談に逃げる癖──それは貴様の本質ではない。“拒絶される恐怖”が、貴様を仮面で縛っている」


「いやいや、そんな重い話じゃないし……ただ、場の空気とかね? 空気読んで、盛り上げた方がいいでしょ」


「空気を読むために、自分を殺すのか。他人を笑わせるために、己を笑いものにするのか。──それは優しさではない。自壊の儀式だ」


「……っ、そんなんじゃないってば……俺は……俺は、ただ……嫌だったんだよ、本気出して……それで笑われたら、全部終わっちゃうじゃんか……」


「終わらぬ。“晒した者”だけが、世界とつながれる。傷を見せよ。震えを見せよ。偽りの仮面を剥がし、真の“貴様”をこの世界に叩きつけろ」


「……そんな勇気、俺にないよ……怖いんだ……」


「怖れよ。そして、それでも進め。それが“勇者”の証。“仮面の道化”ではなく、“魂の戦士”として、この夜に名を刻め!」


「俺なんかに……そんな資格……」


「資格など、最初から誰にも与えられてはいない。奪うものだ。“自分はここにいる”と叫ぶ、その声が世界への侵蝕となる!」


「……だったら、だったらさ……俺のこの顔、見てくれる?」


「否定などしない。俺は見届ける。このファミリアの闇の中で、貴様が初めて見せる“真の顔”を──」


しばしの沈黙。ナズナ=グリムのキャラクターは、画面の中で笑い続けていた。


少年はゆっくりとレバーから手を離した。その動きは、まるでずっと握っていた誰かの手を、ようやくそっと離すかのような繊細さを帯びていた。


彼は深く息を吸い込む。肺に溜まった空気を、一つひとつの思いと一緒に押し出すように吐き出した。


「……仮面、割れてたんだな、俺……」


呟きにはもう、誤魔化す軽さはなかった。声の奥に“自分でも気づかないほどの静かな決意”が潜んでいた。


立ち上がった彼は、ほんの一瞬、画面を振り返る。そして、誰もいない筐体のモニターに、静かに頭を下げた。


それは感謝だったのか、別れだったのか、それとも何かとの和解だったのか──言葉ではなく、仕草が全てを語っていた。


彼はコンビニ袋を持ち直す。崩れかけた缶コーヒーをそっと握りしめる手に、わずかな力が戻っていた。


「……また来るよ。たぶんまた笑いに来る。でも今度は……ちょっと、マジで笑ってみるわ」


そう言って、少年はゆっくりと扉を押し開ける。


外の夜風がファミリアの空気を揺らし、その背中に一瞬、仮面のない素顔が見えた気がした。


俺は、闇に沈む煙の輪をひとつ宙に放つ。それは夜の深淵へと消えながらも、そこに小さな記憶の焔を灯していった。


「──仮面を捨てし魂よ。貴様が見せたその一瞬の微笑は、誰にも模倣できぬ“真実”だ。


否定に怯え、笑いに逃げ、世界に背を向けていた魂が、今この冥府にて一歩を踏み出した。


それは英雄の勝利ではない。むしろ“敗北”の中に宿る聖なる祈り。誤魔化さず、逃げず、初めて誰にも見せた己の“顔”。


笑え。嗤われても構わぬ。涙を流しても構わぬ。誰よりも“本物”であろうとした、その在り様こそが、我が魂を震わせた。


ファミリアは楽園にあらず。ここは、失われた者が帰還し、もう一度“自分という名の仮面”を選び直す場所。


そして、貴様はそれを脱ぎ捨てた。世界に小さなひび割れを与え、夜空にひとつ、新たな星を生んだのだ。


俺は見ていた。誰よりも近くで、誰よりも深く、貴様の存在を。


忘れるな。その微笑みは、もう仮面ではない。


それは、“名もなき魂”が紡いだ、唯一無二のうただった。」

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