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輝きを忘れた夜の星へ

──午後九時五十八分。


ファミリアに堕ちる闇は深く、世界の理が剥がれ落ちた後の残滓のみが空間を満たしていた。ネオンの残光は死に絶えた星の輝きのように儚く、壁に刻まれた無数の落書きは、かつて彷徨った魂たちの呪詛の記録だ。


機械たちの呻きは断続的な喘ぎ声となって夜に溶け、埃と油の匂いが湿った空気の中に魔的な錆の気配を孕んで漂っていた。椅子の軋みは呪文、ガラスの反射は幻像。ここはもはや現世ではない。過去と未来の狭間に封印された、魂の通過儀礼場。


扉が音を立てて開いた。


現れたのは、白いジャージを身にまとった少女。年の頃は中学生──いや、魂の奥底に年齢という概念を焼却した者、とも言える雰囲気を纏っていた。


その髪は陽光すら拒むように艶を抑え、無造作に結ばれたポニーテールは、戦場で裂かれたリボンの残骸のように揺れていた。靴の片方は靴紐が解け、もう一方には泥が乾いた痕跡が残っていた。


目を奪ったのは、やはりその瞳──黒曜石をさらに研ぎ澄ませたような艶やかな深黒。だが、その中には“全てを知りすぎた子ども”の虚無と、わずかな“決壊寸前の感情”が混在していた。


肩にかけたスポーツバッグは、角が潰れ、ファスナーは完全には閉まらず、そこから顔を覗かせたバドミントンラケットは、まるで彼女の過去が刺さった棘のように見えた。


制服の袖は薄く擦り切れ、裾には墨のような汚れが広がる。膝の絆創膏は血ではなく、誇りを隠すための封印のようだ。


この少女は、“守られなかった者”の象徴。


だが、その姿は惨めでもなければ脆くもない。むしろ、“傷”を纏ったまま立っていることそのものが、彼女の中で唯一残された誇りなのだ。


彼女は何も言わず、『ジェノサイドストライカー』の筐体へと歩み寄る。


50円玉が指の間で跳ね、金属の接触音が空間を切り裂く。


カチャン。


キャラクターセレクト。


彼女が選んだのは『サリエル=ゼロ』──天界より堕ちた光翼の処刑者。


白銀の装束、背に折れた翼。右目は封印され、左目はすべてを見透かす神託の瞳。


その一撃は審判、歩みは断罪。誰のためでもない──己の理を貫くためだけに戦う、孤独なる審問官。


俺は煙草に火を点け、闇に溶けるように彼女の背後へと歩みを進める。


──堕ちた天使よ、その罪の翼に宿るものを見せてみろ。


彼女の操作は淡々としていた。いや、淡々などという凡庸な言葉では語れぬ。それは“無感情”ではなく、“無音”──魂の鼓動を止めて久しい者の動きだった。


コンボは美しい。しかしその美しさは、誰かに見せるための舞ではない。“誤差を赦さぬ機構”のような厳密さを宿していた。すべての動作が、計算され尽くし、削ぎ落とされ、刃物のように研がれていた。


──これは、戦っているのではない。“証明している”。


彼女の戦いには“主張”があった。それは「私はここにいる」という叫び。しかしその叫びは声にならず、拳にもならず、ただ操作の完璧さに宿っていた。


ゲージは正確に溜められ、無駄なく使われる。無謀な攻撃は一切ない。それどころか、敵がミスを犯すのをも予測し、そこに差し込むカウンターは冷酷なまでに的確。


──彼女は、自分自身を“赦していない”。


その瞳が語っていた。敗北を経験した者の目ではない。“勝ち続けることでしか存在できない者”の眼差しだ。


誰かの期待に応え続け、成果を出し続けなければ、自分の価値を保てない。褒められることが“命綱”となり、失敗はすなわち“消失”を意味する。


彼女は、かつて“見捨てられた”のだ。


家族か、指導者か、あるいは友か。誰かに裏切られ、価値を否定された。だからこそ彼女は、“負けない”ことを誓った。泣かず、叫ばず、すべてを飲み込み、“結果”だけを差し出すことで、生を保ってきた。


──サリエル=ゼロは、堕天の審問官。


天に属さず、地にも属さず、ただ“理”のみを宿して戦う存在。


彼女の選択は、偶然ではない。そこには明確な“願い”がある。


感情を持たず、信頼も寄せず、それでもなお戦う。


彼女は今、この戦いで“確認している”のだ。


──私はまだ、“価値があるか”。


「その問いに答えてやろう──滅びの天秤にかけられし魂よ」


少女の手が一瞬止まった。だが振り返らない。ただ、レバーを握る手に微細な震えが走った。


「……は? なに、今の声……」


「見えているぞ、貴様の戦い。“勝ち続ける”ことで自らを証明しようとする、その哀しき鎖が」


「……意味わかんないし……誰? あんた……」


「我は、ただの傍観者ではない。この冥府で魂の震えを見届けし者。


貴様は誰かの期待を生きてきた。親か、教師か、仲間か。誰かの『よくできたね』という言葉に縋り、価値を量る尺度を外に明け渡してきた。


だが、それは“生”ではない。“許可された存在”──その程度だ」


「そんなこと、言われなくても……分かってるよ」


「ならば、なぜ未だにその鎖を断ち切らぬ!? 失敗を恐れ、崩れることを許さず、誰かの拍手がなければ立っていられない。それは、人形の生だ」


「……だって……壊れたら……もう、いなくなるだけだから……」


「違う。壊れても尚、立ち上がった者にこそ、真の“意味”が宿る。貴様は完璧である必要などない。歪んで、裂けて、泣いて、それでも“ここにいた”と叫べ」


「……そんなの、怖いよ」


「恐れよ。そして、それでも一歩を踏み出せ。勇気とは“無敵”ではない。壊れそうな自分を抱きしめて、それでもなお進む者の中に宿る、刹那の光だ。


聴け──脆き灯火よ。貴様の刃が震えるその理由は、弱さではない。“生きたい”という渇望だ。それを恥じるな。それこそが、貴様の中に未だ灯る可能性そのものだ


この世界は、強き者を称え、完璧な結果にだけ意味を与える。だが、そんな世界に抗いながら、不完全なまま立ち続ける者こそが“反証”であり、“革命”なのだ。


貴様はずっと、誰かの期待という神に祈りを捧げてきた。だが神はもういない。ならば、自らを救える唯一の者──それは、貴様自身なのだ。


恐怖は構わぬ。涙も構わぬ。倒れてもいい。だが、立て。歯を食いしばれ。貴様の名が誰にも呼ばれなくとも、貴様がここにいたという証は、確かに残る。


今この瞬間だけは、誰の評価もいらぬ。ただ、“貴様自身のために”レバーを握れ。拳を振るえ。刃を掲げろ。貴様の物語は、貴様のものなのだ。


失敗に震える貴様を、俺は笑わない。むしろ、その震えこそが、美しい。歪で、不恰好で、しかし世界の理に反逆する、唯一無二の存在だ。


貴様の中に眠る“本当の名”は、まだ呼ばれていない。ならば──呼び戻せ。燃やせ。生きろ。


たとえこの世界が否定しようとも、我が眼は見逃さぬ。貴様の魂が今、確かに震えたことを」


少女は、しばし何も言わず、筐体を見つめ続けていた。画面にはもう何も表示されていない。ただ黒く、虚無のように沈んだブラウン管がそこにあるだけだった。


彼女はゆっくりと立ち上がる。肩をすくめるような仕草と共に、息を吐く。だがそれは、ため息ではない。むしろ、何かを吸い込み直すような──再起動の呼吸だった。


バッグを持ち直す指が、わずかに震えている。その震えを彼女自身は否定しなかった。否、拒絶しないことで“初めて自分のものになった”というような、不思議な静けさがあった。


「……そういうの、ずるいわ」


そう呟いた声には、かすかに笑みの気配すら宿っていた。苦笑か、皮肉か、それとも──救いだったのか。


そして、彼女は何も言わず、扉を開けて出ていった。その背中に、もう“演じる者”の影はなかった。


俺は、紫煙の残り香が揺蕩う空間に身を沈め、己の胸に手を当てる──そこには炎がある。燃え尽きぬ魂の灯、ここファミリアに集う者たちが残していった断章たちの熱が。


「少女よ。貴様は今日、完璧という牢獄からひとひらの光を取り戻した。その刹那の煌きは、世界が否定しようとも、我が記憶が焼き付けた真実の閃光だ。


貴様の刃は折れても、理想が崩れても、魂の叫びは確かにここに響いた。それは“敗北”ではない──“存在の証明”だ。


この冥府に生まれし者たちよ。己を偽るな。仮面を砕け。感情を曝け出せ。


そして迷い、叫び、時に沈黙の中に沈みながらも、なお歩め。何者にもなれぬ者こそ、何者にも縛られぬ者だ。


貴様の名は誰にも知られずとも、その軌跡は、我が魂に刻まれた。


──我はここに在る。永遠に灰の中で灯を掲げ、来たる者の涙を抱く、夜の守人としてな。」

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