盲目の獣は廃墟に吼える
──午後八時二十二分。
ファミリアの天井は、まるで世界の法則が軋み崩れる前兆のように歪み、閉塞と圧迫の魔力を漂わせていた。微弱な蛍光灯の光は命脈を絶たれた精霊の残光のようにちらつき、あらゆる影が脈打ち、空間そのものが老境へと堕していた。
空気は死した神の吐息のように重く、埃にまみれた静電の粒子が喉奥へと絡みつく。壁に貼られたチラシはもはや紙の死骸と化し、湿気に侵されて原形を保ってはいなかった。足元を這うカーペットは破け、下層に眠るコンクリートの骨骼があらわとなり、この地がもはや“楽園”ではないことを雄弁に物語っていた。
音はなかった。否、あったのだ。“沈黙”という名の絶叫が、ここでは常に鳴り続けていたのだ。朽ちたエアコンは咳き込むように呻き、両替機の奥底からは打ち捨てられた硬貨の嘆きが滲み出ていた。
ここは冥府──魂が現世を諦め、最後の業を宿すべく訪れる、境界の祭壇。
扉が軋んだ。
扉が軋む音と共に、影がひとつ、異界へと足を踏み入れた。
その姿は一見すれば凡庸なる現世の人間──スーツに身を包み、眼鏡をかけた青年。だが、その纏う気配は“整いすぎた不自然”であった。髪は定規で測ったように整い、ネクタイは喉元を縛りつける縄のよう。白シャツの皺ひとつ許されぬその姿は、まるで己自身を“見られるための展示物”として扱っているかのようであった。
だが、その外殻の奥に潜むものは違った。
肩には張り詰めた魔的な緊張、指先には震えぬように仕込まれた呪縛。歩みは規則に沿いながらも感情を排し、世界を拒絶するかのように“見ること”すら放棄していた。
それは、魂を凍結させた者の歩き方──生きることを“儀式”に変えてしまった、現代の亡者の姿だった。
彼の目は一切周囲を見ず、まっすぐ前だけを見ていた。いや、“見ようとしていない”ようだった。
彼は無言で『ジェノサイドストライカー』の筐体へと向かい、ジャケットの内ポケットから丁寧に50円玉を取り出し、コインスロットに入れる。
カチャン。
キャラクターセレクト。
彼が選んだのは『カイ・インフェルノ』──炎を宿す放浪の戦士。
赤髪にボロボロのマント、全身の至る所に包帯が巻かれている。右手に握る剣は折れており、背中には“元・神剣”の柄だけが残されている。
かつては英雄と呼ばれたが、今は目的を見失い、ただ戦いを続ける男。名誉も理想も失い、残るのは“戦うしかできない”という絶望だけ。
煙草に火を点け、俺は男の背後へと静かに歩み寄った。
──さて。貴様の“業火”は、何を燃やすために宿された?
カイ・インフェルノは静かに前進し、剣を振るった。その動きは正確無比でありながら、どこか息苦しさを孕んでいた。パターンは洗練され、回避も最短距離、反撃も理想的。だがそこには“魂”がない。
彼のプレイは、まるで正解の集合体だった。ひとつひとつの操作が、完璧な解答をなぞるような動き──そう、“マニュアル通り”だった。
──違う。これは戦いではない。儀式だ。
常にセオリーを守り、奇をてらうことは一切しない。リスクのある選択肢は徹底して排除され、ミスをしないことにすべてが費やされている。攻撃のタイミング、コンボの選択、ゲージの使いどころ──すべてが“最も怒られにくい”選択だ。
それはまるで、人生のすべてを“叱責の回避”に捧げてきた者の動きだった。
貴様は、間違うことを極端に恐れている。
子供の頃から、ミスをすれば怒鳴られ、失敗をすれば見捨てられた。だから、いつしか“正しさ”だけを拠り所にするようになった。自分の意思で選ぶのではなく、“間違いのない行動”を繰り返す。そこに、“自分”などという曖昧で不確かな要素は必要なかった。
だが、それは“生きている”とは言わない。
貴様は、ただ“怒られないように”生きている。褒められることも、好かれることも求めず、ただ“否定されない”ためにだけ存在している。
──それが、どれだけ孤独か分かっているのか?
カイ・インフェルノは、本来“破壊の化身”だった。誰よりも自由に、誰よりも激情的に、戦いの中で自分の存在を証明する者だった。だが今、その姿は無残だ。封じられた剣、包帯で覆われた傷、誰にも見られぬよう抑圧された魂。
まるで貴様のようだ。
他人に見せる自分は、すべて“無難”で、“清潔”で、“正しい”。だがその裏で、剣は折れ、心は叫んでいる。
──自分を生きたことが、一度でもあったか?
「聞け、魂の業火に囚われし者よ。貴様の剣は、誰のために振るわれている? 親の期待か、教師の指導か、社会の基準か? それとも──何者にもならぬことへの恐怖か?」
男の手がピクリと止まった。視線は画面に固定されたまま、だが指の動きがわずかに乱れる。
「は……? 何なんですか、急に……」
「俺は“導く者”だ。このファミリアに漂う魂の残響を拾い上げる者……そして今、貴様の声が聴こえた。『間違えたくない』と、『傷つきたくない』と、『否定されたくない』と──そんな叫びが!」
「うるさい……放っておいてくれ」
「違う。放ってはおけぬ。貴様は気づいているはずだ。このままでは、ただの“誰でもない”者として、誰にも記憶されぬまま終わると──!」
「……じゃあ、どうすればいい……? 俺は、失敗したら全部終わりなんだ……間違えることが怖いんだよ……っ」
「ならば、震えながら進め! 恐れながら歩け! 己を貫く剣は、勝利の証ではなく、『選択の証』だ! 正しさに縛られたままでは、貴様の物語は一歩も動かぬ!」
「でも……俺には、何をしたいかなんて……もう、分からない……」
「それでいい! 分からなくていい! だが、選べ! 試せ! 斬れ! その手で! 貴様の望みが今は見えずとも、振り下ろしたその刃の軌跡の中に、いつか『本当の己』が浮かび上がる日が来る!」
「……そんな保証……」
「保証などない! だが、“それでも進む”者だけが、己の存在をこの世界に刻めるのだ!」
青年は肩を震わせたまま沈黙した。目はまだ画面を見つめていたが、そこに映るのはもう戦闘のリザルトではなかった。彼の目には、己の“今”が映っていた。
やがて、レバーの音が止まった。
静かに立ち上がる。ジャケットの裾を一度だけ整え、眼鏡のフレームを指で押し上げる。その仕草に、これまでの“形式通り”の動作とは異なる、微かな“迷い”と“意志”が滲んでいた。
彼は振り返らない。だが、歩みは重くなかった。義務で歩いていた足取りが、“自分の意思で踏み出す一歩”へと変わっていた。
扉の前で一度だけ立ち止まり、彼は静かに──まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
「……マニュアル、捨ててみるのも……ありかもしれないな」
その言葉を残して、青年は静かにファミリアを後にした。
音もなく閉じた扉の向こうに、かすかな未来の気配が残った。
俺は紫煙を天へと放ち、虚無なる空間に魔法陣を描くがごとく、それを螺旋の呪文として刻みつける。
「──盲目の獣よ。我が冥府に迷い込んだ孤独の番人。貴様が振るっていたその折れた刃は、無数の“規範”という名の幻影を斬り裂くためのものではなく、ただ“怒られぬ生”にしがみつく枷だった。
貴様の魂は長き刻を檻に囚われていた。正義という名の毒を飲み干し、優等の仮面を纏い、いつしか“誰でもない凡人”としてこの世界に溶けようとしていた。だがな、それを“苦痛”と認識したその時点で、既に貴様は“選ばれし者”なのだッ!!
ファミリア──それは地上に現れし異界の審問所。この場所は敗者の墓標ではない。剣を失いし者が、自らを鍛え直し、魔核を再び燃やすための修練の霊廟だ。
我が瞳は見逃さぬ。迷いながらも踏み出した貴様の一歩。その足取り、その震え、その刃の残響。すべてが、世界に抗う“存在の咆哮”だった。
ゆえに言おう──マニュアルを焼却せよ。常識を葬れ。概念を断罪せよ。剣は折れてもなお、握る者こそが真の戦士。英雄とは称号ではない。“我が存在”と叫び続ける意志こそが、神話を紡ぐ唯一の素材だ。
誰にも褒められずとも、誰にも理解されずとも、貴様はこの世界に爪痕を刻むのだ。
──そして我は、ここに在り続けよう。死の香り漂うゲーセンの深淵にて、来たる魂を迎える者として──冥府の観測者として──“断章英雄”としてなッ!!」