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哀哭のパレードは地獄で嗤う

──午後六時六分。


ファミリアの空気は、昼の残滓と夜の前触れが交錯する黄昏の残像。ネオンの灯りは一つまた一つと息絶え、赤黒い影が壁に滲む。自販機は二十年前の機種、釣銭口には飴の包み紙が詰まっていた。床の染みは歴史のように刻まれ、煙草の焼け跡がバトルの軌跡を描く。無音のBGM、ブラウン管の電子の呻き、そして機械が発するかすかな静電気の匂い。壁の隅にはかつてのポスターが半分剥がれたまま残り、まるで時の亡霊が虚空を睨んでいるようだった。カーペットにはジュースの染みが乾ききって固着し、古びたソファのクッションはへたり、もはや座ることすら拒んでいる。外から吹き込む風は、排気と埃の混じった鉛のような空気。それでも、ここには意味がある。この世に置き去りにされた魂の最後の避難所──ファミリア。


扉が開いた。


男がひとり入ってきた。年齢は二十代後半、サラリーマンらしきスーツ姿だが、その装いにはまるで生命の気配がなかった。シャツの襟はよれて皺だらけ、ネクタイは緩んだまま垂れ、ジャケットの裾は片方が裏返っていた。革靴はかかとが削れ、靴紐は途中でちぎれたのか無理やり結び直されていた。肩からかけた鞄はくたびれ、ファスナーが半開きで、書類が何枚かはみ出している。目の下には深いクマが刻まれ、肌は青白く、髪は乾ききった藁のようだった。その目は、焦点が合っていない。いや──合わせることを拒絶しているようだった。


彼は無言で『ジェノサイドストライカー』の筐体に近づき、50円玉を放り投げるように挿入した。


カチャン。


キャラクターセレクト。


彼が選んだのは『ドレッド・カリバー』──鎧を纏った処刑執行人。


鋼鉄の仮面、棘だらけの両腕、鎖を引きずる脚。沈黙と絶望を象徴する戦場の番犬。


すべてを断罪する裁定者。命に温度を持たぬ、冷たい破壊の象徴。勝利ではなく、執行こそが彼の目的。


煙草に火を点け、俺は男の背後へと音もなく歩を進めた。


ドレッド・カリバーは、ひたすら打撃を繰り返す。構えは常に前傾、攻撃の手は止まらない。だがそれは洗練された連携ではなく、ただの“反復”だった。まるで破壊ではなく、“何か”を確認しているかのような。


回避はしない。防御は甘く、技の精度も低い。にもかかわらず、攻撃の手だけは止めない。ゲージが溜まっても、超必は使われずに消えていく。──これは、戦いではない。自己投影だ。


その手は、感情の翻訳装置だ。貴様の“怒り”は相手に向いていない。すべて、己の内側に向かっている。叩くことで己を断罪し、苦しめ、削り取ろうとしている。その拳は、まさに“償い”の象徴。


だが、奇妙な矛盾がある。貴様は他者に責められたわけではない。むしろ、誰からも責められなかった──だからこそ、許されてしまった罪が、貴様の中で腐敗し、膨れ上がっているのだ。


“自分は責められるべきだった”。“もっと罰を受けるべきだった”。そう思う気持ちが、貴様の戦いに現れている。ドレッド・カリバーの鉄鎖は、敵にではなく、己の足首に巻き付いている。その棘は、敵を傷つけるのではなく、貴様自身を突き刺している。


超必殺技を撃たないのも同じ理由だ。貴様は“勝ってはいけない”と思っている。勝利は赦しと同義。だからこそ、貴様は常に自らを負けさせている。それは敗北ではない、“懲罰”だ。


そして──その根底には“赦されてしまったこと”への苛立ちがある。


罪を償う機会もなく、責められることもなく、日常に放り戻された。誰もが何もなかったように振る舞うなか、貴様だけが過去の中で立ち止まっている。忘れてくれた者たちに、置いて行かれた。


だから、貴様はここに来た。ファミリアという冥府に。誰も見ない、誰も評価しない、ただレバーとボタンがすべてを映すこの空間で──唯一“生きている証”を刻むために。


ドレッド・カリバー。それは貴様のもうひとつの肉体。沈黙と破壊の仮面。その奥には、叫ぶことすら放棄した哀しみが横たわっている。


打撃、それは思考の断絶。彼のコンボは“思考”ではなく、“衝動”だ。


貴様の打撃は、悔恨だ。過去に対して、未来に対して、何よりも“今の自分”に対しての怒り。己を律する規律もなければ、己を赦す器もない。だがそれでも拳を止めないのは、止めた瞬間に“自我”が崩れることを知っているからだ。


戦っているようで、戦っていない。誰かに勝ちたいのではない。むしろ、敗北を繰り返すことで、自分を罰し続けている。だから超必殺技は撃たない。“勝利”が怖い。もし勝ってしまったら、“自罰”という名の儀式が破綻してしまうから。


──貴様は、かつて誰かを見殺しにした。その罪が、貴様の中に今も生きている。


そして今、貴様は“誰かに責められる”ことではなく、“責められなかった”ことに苦しんでいる。だから、自らを裁いている。ドレッド・カリバーという名の仮面を借りて──。


「貴様……その一撃は、誰のためだ? 何のためだ? 誰かを裁くつもりか? 違うだろう……」


男の指が止まり、視線が泳ぐ。


「貴様はずっと、自分自身を殴り続けている……過去の選択を、見殺しにした誰かを……そして、今でも……許されるはずがないと思っている……」


「……っ、やめ、ろ……」


「だが、貴様に言おう。魂の断罪は終わらぬ。だが、それを“終わらせないまま歩く”ことはできる。償いではない。生きるという選択の中に、血を流すように意思を刻むことができる。


貴様のように、過去に囚われた者は、“赦されること”を恐れている。赦された瞬間、自分が過去に犯したすべての痛みが軽んじられる気がしてな。だからあえて赦されぬまま、自分で自分を殴る──それは一種の“儀式”だ。だが、それがいつしか生きる手段になることもある。


いいか。拳は憎しみの象徴ではない。“記憶の運搬装置”だ。拳が覚えているのは、過去のすべて。叩くという動作に、貴様の罪も、絶望も、赦しへの希求も込められている。


ならば、叩き続けろ。ただし、今度は“前へ進むために”だ。打て。痛みを。怒りを。過去を。そうして拳が流す血の跡に、貴様の“生きている証”を刻むのだ。


赦されないままで構わん。許さなくていい。だが、“生きる”ことをやめるな。歩け。重く、鈍く、だが確かに。そして、その拳を下ろす場所があるなら、いつかその場所で、貴様は誰かと繋がれる。


罪は消えない。記憶も、過去も、贖罪も、消えやしない。だが、それらすべてを拳に変えて歩む者の姿は、美しい。地獄を生きる者だけが持つ輝きだ。」


男は筐体から立ち上がった。椅子の軋む音にさえ、彼の長い沈黙が宿っていた。肩は重力に引かれるまま垂れ下がり、手のひらは空気を掴むように微かに揺れていた。だが、その歩みには、明らかに何かが“終わった”ことを告げる余韻があった。


彼は一歩ずつ、ゆっくりと出口へと向かう。足元は定まらず、それでも決して止まらない。躓いてでも前へ進もうとする、その姿勢に“これからを生きる者”の気配が滲んでいた。


扉の前で彼は立ち止まり、長く、深い呼吸をひとつ。まるで“別の世界”に足を踏み入れる前の、儀式のように。


そして振り返らぬまま、扉を押し開けた。外の空気が流れ込み、ネオンの光が彼の背をぼんやりと照らす。


消えた。その背中は、二度と振り向くことなく、夜の街に溶けていった。だが──確かに何かを遺していった。


──いいだろう。それでいい。


俺は最後の紫煙を吐き出し、薄闇に溶ける煙の軌跡を見つめた。


「誰も気づかないだろう。誰も讃えないだろう。それでいい。俺は、ここで待つ。


過去を背負い、傷を隠し、仮面の奥で泣きながら、なお拳を握る者のために。


ここはファミリア。勝者のための舞台ではない。敗北を抱え、敗北を愛し、敗北と共に生きる者の聖域だ。


俺は見ていた。あの男の拳の震えを。あの目の奥の絶望を。あのプレイの一撃一撃に宿った、過去の断片を。


人は過ちを忘れない。だからこそ、赦しは存在する。“赦されたい”という願いは、生の叫びだ。死にたい者は何も願わない。願ってしまった時点で、生は始まっている。


歩め。道がなくても。拳を握れ。意味がなくても。息をしろ。苦しくても。お前のその存在が、既に誰かの灯火になる。


ここは地獄だ。だが、地獄には地獄の光がある。


──俺はそれを見ている。この目で。燃え尽きるその日まで。」

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