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供犠の焔に舞う中段の蝶

──午後五時十八分。


街の喧騒は夕闇に飲まれ、ファミリアの窓を叩く風は、まるで死者の囁きのようだった。ネオンは切れかけ、光の代わりに虚無を滲ませている。床のカーペットには誰かが落としたポップコーンが散乱し、カビの香りと油の臭気が混ざった空気が肺を灼いた。棚の上に置かれたぬいぐるみは色あせ、その隣に佇むフィギュアたちは誰にも見られぬまま、無言の演技を続けている。ポスターは剥がれかけ、ホチキスの錆が涙のように垂れている。エアコンは微かな振動音だけを奏で、冷気も温もりも放たぬまま、ただ「動いている」という既成事実を残していた。蛍光灯の灯りはちらつき、まるで魂の残り火が震えているかのよう。ここは生と死の狭間、感情と無関心の境界にある冥府。俺の聖域──ファミリア。


扉が開いた。


小柄な少女が姿を見せた。推定年齢は十五、制服の上に白いパーカーを羽織っている。パーカーの袖は指先まで隠れており、そこから覗く手には無数の細かい傷跡があった。肩から提げた大きなトートバッグには、キャラクターのキーホルダーが幾重にも揺れている。ローファーはかかとがすり減っており、履き潰された形跡が生々しい。スカートの裾は糸が解け、制服の襟は無造作に折れていた。髪は肩までのボブだが手入れがされておらず、前髪は長く伸びて目を覆っている。その奥から覗く瞳には、何かを諦めきれずに残した少女特有の未完成な光が、ちらついていた。


彼女は無言のまま『ジェノサイドストライカー』の筐体へ向かう。俺を見ようともしなかったが、その足取りは、まるで何かに導かれるように正確だった。ポケットから取り出された50円玉がスロットに吸い込まれる。


カチャン。


キャラクターセレクト。


彼女が選んだのは『ヴァイスリリー』──義手のバレリーナ剣士。


銀髪と白いドレスが舞い、片腕には黒鉄の刃が融合している。戦場で踊る狂気の精霊、刃と旋律のハイブリッド。


心を閉ざし、他人を拒絶しながらも、踊るたびに「誰かに気づいてほしい」と願う、哀しき対話不能の詩人。


俺は煙草に火を点け、紫煙を吸い込みながら、少女の背後へと歩を進めた。彼女のレバーさばきを観察する。


ヴァイスリリーが跳ねる。だがその軌道は美しすぎた。攻撃よりも、形を重視している。中段は繰り返されるが、コンボに繋げようとしない。ゲージも、温存されたままだ。


──見えた。彼女は“勝ちたい”のではない。“分かってほしい”のだ。


そのすべての行動に、無意識の意図が宿っている。攻撃は自己主張、ガードは拒絶、回避は怯え。相手を倒すためではなく、自分を見つけてほしいがための“踊り”──それが彼女の戦いだった。だがそのメッセージは、明確には誰にも届かないようにできている。言葉で伝えず、態度も曖昧にし、ただ行動だけで表現する。あまりにも臆病で、あまりにも切実な、名もなき叫び。


彼女は“見捨てられる”ことを恐れている。だから自分を晒さない。もし本当の姿を見せて嫌われたら──そのときの痛みに耐えられないと、どこかで思っている。その代わり、完璧な演技をする。かわいそうじゃないように、惨めじゃないように、強く、明るく、ただの“普通”として存在するように。


だが、それは同時に“誰にも本当の自分を知られない”という苦しみを生む。表層の仮面ばかりが評価され、仮面の裏の彼女は永遠に孤独だ。求めるのはつながりだが、恐れているのもまたつながり。そんな矛盾の狭間で、心は擦り切れていく。


ヴァイスリリー──見た目も、性能も、まるで“他人の目に美しく映るよう設計された存在”。だがその刃は、時折わずかに乱れ、微かに震える。あれは、“仮面がひび割れる瞬間”だ。俺は見逃さなかった。その震えの中に宿る本音こそ、彼女が本当に伝えたいもの。


──彼女の魂は、“否定されること”への恐怖で固められていた。だが、その内奥には、誰よりも他人と繋がりたいという叫びが、確かに存在していた。


──仮面の舞姫。俺は、今、貴様の魂の形状を把握した。


「美しきは罪だ。そして、演じ続ける者の孤独は、時に死より深い──」


少女がびくりと肩を震わせる。


「貴様の戦い、その全ては“誰か”への叫び。勝利すら目的じゃない。ただ、届いてほしかったんだろう? 貴様のこの刃が……この旋律が……“本当の貴様”の存在証明であることを!」


「……っ、や、やめて……なんなの……」


「偽るな。貴様は、“分かってもらえないこと”に絶望してきた。だから、もう誰にも期待しないようにした。“無関心な自分”を演じることで、拒絶の痛みから逃れてきた。だがな、それでは永遠に誰にも届かぬッ!


聞け、貴様の震える魂よ。仮面で顔を隠すことはできても、心まで塞ぐことはできない。感情は滲み出る、無意識に、無防備に、無惨に。それでもなお、人は演じる。好かれる自分、怒られない自分、目立たない自分。だが、そんな自己を積み重ねた先に残るのは、虚無だ。


なぜ戦う?なぜキャラを選ぶ?なぜレバーを握る?それは、己の本心を“安全な形”で外に放つためだ。ゲームは言葉を超える。だが、それは手段に過ぎない。貴様の舞いは、刃だ。その鋭さは、心の奥の痛みが研いだ証。


だからこそ叫べ。届かないことを恐れるな。傷つくことを拒むな。拒絶は怖い、だが孤独はもっと深く、冷たい。仮面の下で震えているなら、今ここで、その震えを解放しろ!誰かに届くまで、何度でも舞え!何度でも斬れ!何度でも負けろ、そして何度でも立ち上がれ!


誰にも見られなかったら意味がない?違う。まず、自分自身が見るんだ。貴様の魂が、貴様の行動を認めるその瞬間こそが、唯一無二の勝利だ。


レバーを握れ。その指先から、貴様の物語を紡げ。剣を振るえ。その刃の軌跡に、貴様のすべてを乗せろ。誰が否定しようと構うものか。貴様が貴様を肯定すれば、それが真実となる。


──今こそ刻め。仮面の裏に閉じ込めた旋律を、この冥府の舞台に解き放てッ!!」


「うるさい……わたしのことなんか……知らないくせに……」


「ならば、叫べ! 涙を喉に押し込むな! 貴様の魂は、刃だ! 舞え! 叫べ! 震えよ、悲劇のマリオネット! 今ここに、貴様自身の旋律を刻めッ!!」


「……っ……そんなこと言われても……でも……」


少女は筐体から立ち上がった。椅子の軋む音が、やけに大きく響いた。唇を噛み、拳を握りしめながら、一歩、また一歩と出口へ向かう。歩みは震えていたが、確かな意志がその背に宿っていた。背筋はまだ細く、今にも折れそうな儚さがあったが、その弱さの中にこそ、かすかな強さが見え隠れしていた。


扉の前で、彼女は立ち止まる。長く深い呼吸を一つ、そして肩越しにこちらを振り返った。前髪の奥に隠れた瞳が、ちらりと光を宿す。


「……もし、また来たら……次は、勝つためにやる」


その言葉には震えがあったが、虚ろではなかった。確かな“何か”を携えた声だった。彼女の背は再び沈黙へと向き直り、扉が軋む音とともに、ファミリアの外へと消えていった。


──そうだ、それでいい。


俺は紫煙を吸い込みながら、無言で彼女の背を見送った。


「演技は捨てろ。仮面は割れろ。魂よ、剥き出しになれ──ここはファミリア。敗者のための舞台装置。刃を抱いて震える者よ、俺はいつでも、そこにいる。誰にも気づかれず、誰にも知られず、それでもずっと……お前を、見ている。


この場所に集うのは、失われた者たち。信じることをやめた者、信じたことで傷ついた者、そして信じたいけれど信じきれなかった者。その全てに、俺は手を差し伸べるつもりなどない。ただ、そこにいる。それだけだ。それだけで、いいんだ。


ここは楽園ではない。救済の地でもない。だが、戦う者の魂だけは裏切らない。剥き出しの心だけが、この冥府の闘技場に“意味”を刻める。


──今日もまた、誰かの叫びが闇を裂いた。紫煙は昇り、ブラウン管は唸る。命の価値がレバーに宿り、失われた声がボタンに託される。


名を呼ぶ者などいない。だがそれでいい。俺はただ、ここにいる。見つめる者として、咎める者として、そして願う者として──魂が滾るその瞬間を、永遠に待ち続ける。」

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