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six socks  作者: AI子
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春を見つける散歩

 部屋の机に向かって、ノートを広げる。


 ペンを手に取る。


 しかし、そこから先が続かない。


 専門学校で出された課題——それなりに興味のある内容のはずなのに、どうにもやる気が出なかった。


「……はぁ」


 ため息が、静かな部屋に溶けていく。


 パソコンの画面を開いても、スマホを眺めても、気持ちは一向に乗らない。頭がぼんやりして、言葉が浮かんでこない。


 こんなときは、無理に机に向かっていても時間を無駄にするだけだと分かっていた。


(部屋に籠もっててもダメだな……)


 ふと立ち上がり、クローゼットを開ける。適当にジャケットを羽織り、スマホとイヤホンをポケットに突っ込んだ。そして、もしかしたら何か閃くかも、という淡い期待を込めてメモ帳とペンも反対のポケットに突っ込んだ。


「ちょっと、出かけよう」


 行き先は決めず、ただ歩くことにする。



 外に出ると、ひんやりとした風が頬を撫でた。


 冬の名残を感じる空気。けれど、それと同時に、どこか柔らかさも混じっているように思えた。


 空は薄曇りで、太陽は白くぼやけている。けれど、じっとしていればほんのりとした温もりを感じる。


(なんか、冬の終わりって感じ)


 足元を見ると、道端の植え込みに小さな花が咲いていた。


 寒さに耐えるように縮こまっていた草木が、少しずつ芽吹いている。


 公園を通ると、枯れ枝ばかりだった木々に、小さな蕾がついているのが見えた。


 いつの間にか、季節は春へと向かっていた。


 颯はスマホを取り出し、無意識にカメラを向ける。


 普段なら、SNSに載せるために自分のファッションを撮ることがほとんど。


 でも、今日は違った。


 芽吹いたばかりの若葉、道端の名もなき花、公園のベンチに座る猫。


 何気なくシャッターを切るたび、見過ごしていたものが浮かび上がる。


 ビルの隙間から覗く空、カフェの窓辺に並ぶコーヒーカップ、駅前の花壇に植えられたチューリップ。


(意外と、面白い景色ってあるもんだな)


 スマホの画面に並ぶ写真をスクロールしながら、ふと思う。


 ファッションの写真を撮るときは、自分がどう映るかを気にしていた。けれど、風景や何気ないものを撮るときは、ただ「そのままの美しさ」を残そうとしている気がした。


 そう考えると、なんとなく気持ちが軽くなった。



 しばらく歩いたあと、近くのカフェに入り、温かいコーヒーを注文する。


 席に座り、撮った写真を見返す。


 ——小さな変化を見つけるのって、面白い。


 それはまるで、自分の中のモヤモヤが整理されていくような感覚だった。


 春の訪れを知らせる蕾、冬の間じっと耐えていた木々、陽射しの変化。


 日常の中にある「気づき」が、どこか課題のヒントにもつながる気がした。


(よし、やるか)


 スマホをポケットにしまい、メモ帳を開く。


 さっきまで鉛のように重かったペンが、今はするりと動き出すような気がした。


 風景の中に見つけたものが、自分の中の滞っていたものを流してくれたのかもしれない。


 コーヒーの湯気が立ち上るのを眺めながら、颯はようやくペンを走らせ始めた。






side H


 専門学校の帰り道、大翔はふと足を止めた。


 交差点の向こう、公園のそばでスマホを構えている人物に気づいたからだ。


(……颯?)


 風に揺れる木々に向かって、真剣な表情でシャッターを切る鳴渡颯の姿があった。


 颯が写真で自分以外を撮っているのは珍しい。


 大翔は思わずじっと見つめてしまう。


 普段、颯がスマホのカメラを使うときは、だいたい自分のファッションを撮るときだ。それこそ、SNSにアップするためのコーディネート写真を撮るときくらい。


 けれど、今の颯は違った。


 道端の花や、並木道の影、公園のベンチに座る猫——何気ないものにレンズを向けている。


(へぇ……)


 大翔は少し驚きながら、信号待ちの間、その様子を眺めた。



 ——ふと、昨日の夜のことが、頭をよぎる。


 リビングのソファに座っていた颯は、いつもの軽い調子ではなく、何かを考え込むような顔をしていた。


 何度か話しかけようとしたけれど、結局、「おやすみ」とだけ声をかけて自分の部屋に戻ったのだった。


 だけど、今——


 スマホを構える颯の表情は、昨日とは違っている。


 どこか晴れやかで、いつもの颯に戻っているように見える。


(……よかった)


 心の中で、そっと安堵する。



 信号が青に変わる。


 渡ろうとしたところで、大翔はふと迷った。


 ——声をかけようか?


 颯は夢中でシャッターを切っている。


 何かを見つけるたび、微かに表情を変えながら、一枚一枚丁寧に撮っている。


(こんな颯、初めて見るかもな)


 いつも颯は飄々としていて、どこか「かっこよく見られること」を意識しているようなところがある。


 でも、今の颯はそんなことを気にしていない。


 目の前の景色を、ただ楽しんでいる。


(邪魔するのも、もったいないか)


 せっかく気分が乗っているのに、声をかけたら流れを切ってしまいそうだった。


 それに——


(これで、課題も進みそうだな)


 大翔は一歩踏み出しかけた足を引っ込め、そのまま颯を見守ることにした。



 ふと、颯の視線が空を仰いだ。


 大翔もつられて空を見上げる。


 雲の間から、淡い光がこぼれていた。


 昨日まではまだ冬のような寒さだったのに、今日はどこか春の気配が混じっている。


 季節の移り変わりに気づいて、颯は嬉しそうに微笑んだように見えた。


(ああ、もう大丈夫そうだな)


 颯の背中を見ながら、大翔はそっと歩き出す。


 声をかけるのは、また今度にしよう。


 颯が自分のやり方で気持ちを切り替えているなら、それを尊重してやりたかった。


 風が吹く。


 春の匂いが、ほんのりと混ざった風だった。

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